見出し画像

人と比較する癖の弊害


つい、自分を人と比較してしまうのは、誰しも経験があるだろう。
私はずいぶんその癖がなくなったと思っていたが、今日久しぶりに人と
比べてしまった。

ふと昔の友人たちのことを思い出し、その友人たちの裕福さと自分を比較したのだ。
私の周りには、かなり経済的に恵まれている人たちが多い。
それで私は僻んだことなどは少ないのだが、それでも時には服装や時計、バッグなど目に見えるものを見ると、比較してしまう自分がいる。

中学生の思春期の頃は、かわいい同級生と自分の顔を比べて落ち込んでいた。
その時に立ち直ったのは、「かわいい人は、親からもらったものがたまたまよかっただけで、なんの努力もしてない。努力して得たものではない。私は努力して得られるものを手に入れよう」

そんなことを、中学生の頃考えていたが、負け惜しみに思えなくもない笑

でも、今日は気づいたのだ。
人と比較すると、大事なものを失うことに。

それは、

「自分を、そして自分の気持ちを感じられなくなる」のだ。

「比較の罠」に入ってしまうと、「本当にそれを私は望んでいるのか」
「私が幸せを感じるのはどんな瞬間か」などが、どこかに飛んでいってしまう。
人のことが気になって気になって仕方がなくなる。
そのせいで、自分の心が見えなくなってしまうのだ。

人と比較することに、意味はない、とみんな頭ではわかっている。
でも、目に見えるものを見せられると(バッグや車、家など)どうしても自分とその人を比較してしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。

そんな時、「昨日星を見て感動して泣いたこと」や「朝日を見て、生きていることに感謝したこと」などを思い出し、自分を取り戻している。

先日は、盲導犬を連れている人をみただけで、その盲導犬と飼い主の間にある
「愛」に感動して泣けたし、本当に朝は朝日を見て、夕方は夕日を見て、夜は星を見て、その美しさに感動し、泣いている。

つまり私は満たされていて幸せなんだ、ということを、こんな場面で確認できていることを思い出し、自分を取り戻すことができた。

もちろん、大きな家と高級外車と高いブランドものバッグと時計を持つことで
幸せを感じる人もいる。
それはその人の幸せの価値観なのだから、手に入れるといいと思う。

でも私は、車が必要ない場所に住み、必要な時はレンタカーでいい、と考えるタイプだし、バッグは必要な数だけあればいい。
本当に自分を受け入れてくれている人たちだけに、囲まれていればたくさんの
友達はいらないタイプだ。
そう、自分の心がちゃんと見えていれば、人のことは気にならなくなる。
自己満足の世界でいいのだから。

自分の心が見えていれば、人と比較しない。
人と比較する自分がいても、否定はしない。
でも最終的に自分の心が見えていることが、大事なのだと思った出来事だった。


いいなと思ったら応援しよう!

通りすがりのnoter Hiromi
サポートありがとうございます!いただいたサポートは、次の良い記事を書くために使わせていただきます!