学生時代・地元の、思い出話ができない人
はい、私です。
いざ考えてみると、思い出せない人も多いと思うけど
よく地元の話題になったときに、学生時代のこと
情景も交えて語ってくれるような友達がいて
思い出の内容よりも、覚えていることに、
本当にただ、すごいなと思っていた。
私の学生時代といえば
初めて、「消えたい・死にたい」と言ったのが
不登校になり始めた10歳のときらしい。
小中学生時代のことは、ほとんど思い出せなくて。
自傷を覚えたのは13歳くらいからだとすると
小学校から不登校が始まり、中学1年のときは少し行ってみたけど
2-3年は全く行っていなかった気がする。
そんなこともあり、大人になって出会う人たちが
昔の思い出話なんかをしているのを聞いて
自分も過ごしてきたはずの 学生時代の記憶がないことに
なんだか もったいない と思って
友達の結婚式を理由に地元に1週間ほど帰ることにした。
黒歴史って死語なのか分からないけど
そんな一言で片付けられる学生時代だったなんて思いたくない。
だって今も生きてるし、なんか少しくらい
良かった思い出もあるんじゃない?と期待を込めて。
帰ってやったこと
・写真を探す
・ノートを読む
・友人と会う
・母校巡り
・とにかく歩いていたであろう場所を散歩
・実家を感じる
・たくさん写真を撮る
その結果、思い出したというよりも
昔の自分について振り返り、考え、思い出してみた。
結論から言うと、いじめられて当然なほど、自分勝手でした。
なんでそんなこと思ったのかというと
幼少期の写真から伝わるわたしの性格は、
ブスチビのくせに目立ちたがり屋でした。
また、家にあったノートを読んでいて思ったのは
とにかく噂話・文句・不満を言うが大好きでした。
交換日記なんかを読んじゃったりして・・・多分中学校の時の。
やばい、小学校からいじめられてたのに反省してなさすぎじゃん。
と思いながらノートを読んでいて昔の自分にバカっと伝えました。
他にも学校で使ってたはずのノートを見て、
たとえば辛い時の記憶の破片とかを拾えないかなと探していたんだけど
ほとんどノート書いてないんですね。
どんな学生だったのか分からないけど、小中学生の頃は勉強が大嫌いでした。
中学2-3年も学校行ってないって、いったい何してたんだろう。
ノートを見ていてちゃんとやってたのは英語と、
服のデザインと、好きな曲の歌詞をメモするくらいでした。
でも、文章になってないような
殴り書きみたいなSOSも見つけることができました。
私が地元に帰ってみて 思うことは、実家を出てよかったなってこと。
どれだけ東京での生活が苦しくて、実家帰ろうかな。と
悩んでしまったこともあったけど
地元で会う人たちは環境を理由に変わるための行動ができない人が多い。
スーパー・コンビニ・駅・車移動…
何をしていても、監視されているような街。
誰と誰が付き合ったとか、私が不登校になったとか、誰が伝えるのかも分からない話を、母親から報告を受けるような食卓だった。
学校に行かなくなった私にとって、インプットはテレビと母親の話。
小中学生の頃は携帯もパソコンもなかったので、読書にはまっていたと思う。時々母親の携帯を借りて、歌詞を書いている人のブログを読むことが楽しかった。
中学3年のときに携帯を手にすることができ、
インターネットの世界で生きるようになったわたしは
テレビと母親の話も、知識が増えるにつれてつまらなくなり
ブログやSNSで知り合った人からの影響で音楽を聴くようになりました。
音楽に関わる仕事がしたい、と思い始めたのは
中学3年のときに行くようになったライブハウスがきっかけだと思う。
最初は、一回り離れた従姉妹と行っていたけど、だんだん一人で行くようにもなり、開場前に並んでいると同じように一人で来ている自分より年上の人たちと音楽を通して友達になれることもあった。
ライブが終わって自分の部屋に戻ると、変わりたい・普通になりたいと思っていた。
そんな自分を救ってくれたのが音楽でした。
高校は、アルバイトができて、不登校だった自分を知っている人がいない
電車で40分くらいの公立商業高校に進学した。
田舎の中学生にとったら、電車で通うのは進学校に行く人くらいで
ほとんどの人は自転車通学だったし、私の家の近くにも歩いて通える高校はあった。
住んでいるところより少し栄えた就職校で、誰一人友達が居ないところに通うのは少し不安だったけど、それより誰も自分の過去のことを知らない環境に踏み込むのは嬉しかった。
高校生活の思い出
高校に通いはじめて小中と不登校だったわたしにとって
学生ブランク5年ぶりくらいの、ちゃんとした学生生活が始まった。
少し栄えた場所にある就職校で、不登校だった私でも合格する高校って
偏差値35-50くらいの学校で、ヤンキーもいました。
商業高校は女子が9割で、不良系とインドア系のカーストが入学当初からはっきりしていた。
中学からの友達がいない私にとって「一人でいること」は当たり前。
小中学校で、いじめられて人に好かれようと頑張ってみたけど
失敗した経験があるから、「人に媚びるくらいなら、一人でいよう。」がモットーでした。
友達は音楽と読書。
それでも味方は多いほうがいいと知っていたので、好きなもの・興味があること・家庭環境が似ている、とかで自然と仲良くなれた人とは一緒にご飯を食べるようにもなりました。
問題は勉強のほうで、何となく地元で就職はしたくないと思っていたから
経済的に国公立大とかを視野に入れて勉強しなくてはと考えつつも、
高校に入学して最初の授業で、先生が新入生のことをバカにしながら
小学生でも解けそうな漢字問題(順番に黒板に記入していく)が始まりました。
わたしは、きのう・さくじつ(昨日)を、
「作日」と書いてしまうくらいアホでした。その時の先生のフォローは「自分が作った日やからさくじつかぁ…不正解やけど」で。
不良もいるので、「え?書いたん誰?アタシよりバカじゃん〜」といじりが飛んできていましたが、笑って対応できる余裕がありました。恥ずかしかったけどな。
ほりゃ学校行ってなかったんやけんバカなんは仕方ないわ。と思っていた…
また、入学してすぐに、学力テストがあり、現実を見ることになります。
空欄はなかったし、あとは運やな…と思っていたテストでしたが、結果は
36/40 位
あんまり笑えず、席に戻ろうとしました、そのとき…
ふと、自分よりも先に結果を受け取った チャラい男子の結果に目が行ったのです
23/40 位 !!!!!!
こんなやつよりバカなの!?!悔しい!と初めて勉強してこなかった自分を恨みました。
(チャラい男子、あとで話すと音楽の趣味が合い普通にいい人でした、見た目で判断してごめん)
2回目のテストは、1週間くらい前から勉強をはじめて徹夜もしながら、
突然の挽回で7位となり、そこからは、得意だな。と思えた科目で平均点を上げることに成功し、クラス内だと一番よい時で4位まで昇りつめることができました。
高校のレベルがそもそも低いというのもあったけど、頭よいカーストに分類されると、圧倒的に攻撃されることがなくなりました。
生徒会にも入ることができたし、小中学校でできなかった経験というか
やっと、まとも・普通になれたことが嬉しかった高校生活。
入学した当初は、電車も人の目がしんどかったし
(あれどこの制服?木下さん学校行くようになったんじゃね、みたいな空気)
学校に通いながらバイトもして、部屋に戻ると、月を見ながら、泣いた夜もたくさんありました。
(先生が嫌い、クラスメートが合わん、死にたいけど、生きていたい。絶対見返したる…)
商業高校に入ってよかったことは、簿記を勉強するようになって、めちゃくちゃ簿記が面白くて楽しいと思うようになりました。
簿記部にも所属し、全国大会で東京に行くこともあり、高校卒業後は東京の大学に行って、税理士になりたいと考えていました。
実際に簿記部の先輩は、本気で税理士を目指し近くの専門学校に入学する人もいました。
高校1年の終わりになってから、やっと日商簿記2級の受験レベルとなり検定を受けました。
でもそれが、工業簿記がめちゃくちゃ難しい回で合格率も今までだいたい30%くらいだったのに、初めての試験でまさかの15%という、、もちろん不合格。(その後も1-2回受験したような気がするけれど、65点とかで高校卒業までに合格することはできませんでした。)
まぁ、大学入ってから、可能なら院まで行って、税理士になろう!と思っていた矢先
2年に上がるときの三者面談で、母親から「就職してほしい」と言われました。
私:へ?東京の大学行かせてくれるんじゃないの?
母:金銭的に大学なんて無理よ。
担任:県内の私大、もしくは他県の国公立か…(国公立には経営・経済学部系が少ないから無理)
私:東京行きたいんやけど!(税理士も考えてはいるけど上京が優先)
担任:東京の専門学校?
母:税理士なるんやったら県内の専門学校でええやん・・・
私:ちょっと考えます。
就職か〜。しゃーないか…と思いながら、それなりにいい成績はキープしていたので おすすめされる就職先のファイルを見つつ、大学の推薦項目を眺めてたりしていました。
やりたいことを見つけた
三者面談で進路が変わった友達もいて、共感したり嫉妬したりしつつ、夏休みに入り
バイト三昧な日々を送っていましたが、高校2年の夏休みに初めて東京遠征をしました。
アジカンのナノムゲンフェスです。
初ひとり飛行機、初ひとり旅、初遠征…!!!
横浜アリーナの近く、プリンスホテルに泊まりました。
その時は、もう上京のことしか頭になく
就職でもいいから、東京に行きたいと考えていました。
待ちに待ったフェス!ライブ!そのあとネットで知り合った人にも会える!
その前に、ライブで、とっても感動することがありました。
アジカンをPA卓の後ろから見たんですね。
ステージに大好きな音楽を演奏するアジカン
PAさん等のスタッフがかっこいい・カラフルに光るPA卓・いい音が聴こえるこの空間
「わたし、PAになりたい!この卓を扱えるようになりたい!
どセンターでライブを、、この最高な空間を一緒に作れる人になりたい!」
と、初遠征で夢が決まったのでした。
高校卒業後は、音響の勉強ができる専門学校に行くぞ。と。
(あとライブの次の日に会った人が彼氏となり
上京して専門→新卒正社員の時期、同棲する人になりました)
まとめ
中2では自殺未遂をして、長らく、あの時死んでいたらよかった。と思っていましたが
高2で夢と彼氏が見つかり、楽しく生きていけると思っていました。
他にも思い出せることはたくさんあった。
そういうことを、全部忘れて、学生時代は黒歴史にしようとしていた。
テニスコートで受けた上下関係とか
長距離走が得意だったこととか
先生と喧嘩して授業に出なかったこととか
置き勉が見つかる前に隠せたこととか
好きだった先生の顔を思い出せることとか
いい思い出も悪い思い出も、地元に帰ればちゃんと拾うことができました。
魔物が住んでいる、地元
でもね、やっぱり地元に1週間もいると
魔物が身体に住み着いてしまう気がするんです。
この家で、うまく成長できなかった自分がまだどこかに体育座りしているようで。
勉強が大嫌いだったわたしが、帰ってきたと思ったら
仕事だ、考え事だ、と親とも話さず、パソコンを開き
クライアントと電話したりメールしたり、ビデオ通話で打ち合わせをしているものだから
親はびっくりしたと思う。
わたしが出て行ってひとりになった母のインプットは、
テレビと職場と近所の人からしかなくて
600kmくらい離れた東京の私の思考を理解できるほどの経験値がないんだと知った。
悩みや愚痴をこぼしたら、説明しても分かってもらえず、どうにもならない心配ばかりしていた。
地元の友達も、悪い意味で変わっていなかった。
学生の時は毎日のように顔を合わせて笑い合っていたのに。
複雑な結婚と出産をした友達だけは、環境は違えど楽しく話すことができた。
それでいいんだと思った。
あと20年もすれば、実家はなくなるんだ。
帰る場所が消えてしまっても、わたしは輝いていますように。
10年くらいかけて、ちゃんと、母親には迷惑をかけたからこそ
親孝行をしていきたいと思った。
まずは家を片付けることから。
今回の帰省は、祖母の葬式から1年ぶりだったけれど
この1年でフリーランスになったこともあり
私自身が1年前と大きく変わったんだなと思った。
両親や地元、友達に対する考え方とか、まるで見えるものが1年前とは違っていた。
生き続けることは面白いと思った。
少しずつだとは思うけど強くなっている。
地元に帰ることで、弱かった頃の自分を認めることができたし
強くなりたい気持ちは変わらず、成長していることにも気づいた。
5年以内とかで、もっとビッグになれたら、芸能人みたいに
親孝行として親戚みんなで暮らせるような一戸建ての家をプレゼントできたらいいのに。
そんな日はきっと来ないと思うけど、母親にとって私が楽しく生き続けることが幸せだと思うし、もう他人と比べることや見返すなんてことはどうでもよくなったから、私はこれからも尊敬する人たちと自分のために努力してひとつひとつ叶えていきます。
ここで育って、こんな考え方をしているなんて、信じられないなぁ。と思ったけど
私にはまだ、地元という帰れる場所があったという思い出の話でした。
サポートしてもらえたら、とても嬉しいです。カフェで書くことが多いので、コーヒー代にします。