障害者差別解消法元年の悲劇を乗り越えて-エクスクルージョンと差別意識の深層、そして「合理的配慮」へ-
植草学園短期大学教授 佐藤愼二
拙文は『生活中心教育研究No.29』(2016年12月発刊)に掲載された内容を一部修正したものである。
平成28(2016)年7月26日、相模原の障害者施設で凄惨な殺人事件が起きた。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。
今回の事件は、障害のある娘をもつ父親としてやり場のない憤りを禁じ得ない、許せない。一方、教育者としては-共生社会を標榜するものの-その取り組みは未だ道半ばであり、むしろ、緒に就いたばかりであることを思い知らされることとなった。
しかし、同時に、容疑者の動機が明らかにされる過程で、我々の心に宿る得体の知れない葛藤的心情が惹起された。極めて不快で、不安な気持ちにさせられたのも事実である。それは、「障害は不幸である」「障害は社会や家族の負担である」等の-すでに過去の亡霊として葬り去られたかに思われていた(否、思い込もうとしていた)-優生思想という不気味な衝撃であった。
ナチスの時代からは77年、そして「ある社会が、その構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会である」(1979年『国際障害者年行動計画』)と国連が宣言してすでに、40年という歳月が経過した。だが、今なお、我々の心の深淵の闇に横たわり、そこに宿る心情を容疑者は白日の下にさらしてみせたのだ。
我々は容疑者の行為を残虐無比の非道な犯罪であると言い捨てることはできるだろう。だが、果たして、「障害は不幸である、社会の負担である……」というその思想性を一片の迷いもなく断罪できるのだろうか?それほど、我々の社会は成熟しているのであろうか?その根源的な問い直しが求められることとなった。すなわち、容疑者が振りかざした刃は他でもない我々一人一人の胸にも突きつけられたのだ。
思えば、相模原障害者施設殺傷事件のわずか2週間前に、血液による新型出生前診断で陽性反応が出た妊婦の90%以上が中絶を選択しているという新聞報道がなされた。この報道を一体どれだけの人々が我が事として受け止めたであろうか。中絶された方々に迫られた苦渋の決断を思えば、安易な議論はできない。そして、今回の事件と中絶という選択を単純同列に比較することもできない。 しかし、なお、我が身の立場に引きつけて「あなたならば中絶しますか?しませんか?」と突きつけられるならば、どうであろうか?……「障害は不幸である、障害は役に立たない、障害は家族や社会の負担である…」という優生的な思想と否応なしに向き合うことになろう。先の容疑者との思想的共通性にふと気づくとき、毛骨悚然たる思いにとらわれ、我々はそこに立ち尽くす。
だが振りかえれば、わずか数年前まで学校教育法上、障害のある子どもたちは「心身の故障」(旧第72条)があるため、「欠陥を補う」(旧第71条)教育の対象とされていた。さらには、「優生上の見地から不良な子孫」としてその「出生を防止」(優生保護法第1条 ※1996年に「母体保護法」に改題)される対象になっていたのだ(※現在、最高裁判所大法廷で審理中)。これらは異国の話ではなく、紛れもなく我が国の話である。
妊娠中の胎児の障害の有無で思い悩む我々の心情と容疑者との思想性とは全く相容れず、無関係なのだと言い張るならば、それは知的退廃になるだろう。一方で、その関係性を自覚しているにもかかわらず、あえてそれに目を背けるならば、それは道義的退廃になるだろう。
繰り返すが、今回の事件は全く無抵抗の重度の障害のある方々を殺戮するという、言葉では尽くせないほど残酷卑怯極まりない事件である。では、その被害に遭われた方々とそのご家族に、そして、今、学校に集う子どもたち、その保護者の方々に何ができるだろう?特別支援教育に携わる我々教育者としてできることは何であろうか?教育として、そこに責任の一端を負うとするならばそれは何であろうか?
それは障害者差別解消法元年に起きた悲劇として、未来永劫に渡って我々の記憶に止めることである。そして、我々自身が今一度、エクスクルーシブな差別意識の深層に向き合う中で、インクルージョンの本質を問い直し、その理念と方法を鍛え上げることであろう。障害者差別解消法が目指す共生社会のありようを描き、その形成に力を尽くすことであるに違いない。
奇しくも、障害者差別解消法が提起した「合理的配慮」の提供が今年度、2024年4月から義務化された。この事件のような「する差別」が断罪されるべきは論を待たない。一方、「合理的配慮」とは「配慮しないことは差別」とする厳しい思想性を有している。この意味を改めて胸に刻み込み、共生社会のありようを描きたい。
そして、ここで改めて、問わなければならない、すなわち、あらゆる改革・変革には3つの側面がある。一つは「制度」改革、二つに「組織」改革、そして三つに「意識」改革である。今年度、「制度」改革には一つの区切りがついたと言えるのかもしれない。しかし、残念ながら、「組織」改革、否、「意識」改革に至ってはいかがであろうか?
それは極めて原初的ではあるが、お互いの共感性の喚起から始まるのではないだろうか。そして、その成否は、正に、「学校教育」という地道な営みにかかっているに違いない。目と気持ちを背けることなく、問い考え続けたい。