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道徳の時間で「考える」とは

 本シリーズでは、道徳科の授業で子どもが「考える授業」とはどういうことなのかについて、徹底的に迫ってみたいと思います。もしかしたら、専門的で難しい話になってしまうかもしれませんが、シリーズ最後までお読み頂けると幸いです。

1 とある授業研究会で

とある学校の授業研究会で、A先生から次のような質問がありました。
「今日の授業は教材の内容ばかりにとらわれて、子どもが自分ごとで考える機会がなかったように感じました」
そのように問われた授業者は、次のように答えました。
「ご質問ありがとうございます。では、A先生ならどうしますか」
すると、A先生は、
「私だったら、教材から離れて子どもたちの身近な学校生活の場面を提示して考えさせます」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 実は、このようなやりとりが多くの授業研究会で見受けられます。
つまり、A先生のような考えを持つ先生方の多くは、道徳授業では、一度、教材で深めた価値を、「このような経験はありますか」と必ず子どもの身近な生活場面に置き換えて考えさせなければならないと考えているのです。

 本当にそうでしょうか。

 確かに、道徳科の目標には「自己を見つめ」や「自己の生き方について考えを深める学習」という文言があります。
 しかし、必ず子どもの生活場面に置き換えて考えなければならないのでしょうか。
 このような考え方は、昔から受け継がれてきた道徳の指導法の一つとして、展開前段で教材に提示されている具体的な状況や事柄を用いて道徳的価値について考えた後、展開後段で子供の生活経験と関連付けて一般化を図るという指導法から来ているのかもしれません。
 そのことに関して、今一度、問い直してみる必要があると思うのです。

2 中間的モード

 私の意見としては、「必ずしも教材から離れて子どもの身近な場面に置き換えて考える必要はない」です。
 それにはいくつかの理由があるのですが、その一つとして道徳授業を分析した司城紀代美氏の研究では、

道徳の授業で、子どもたちの語りには、自分自身について語る「一人称モード」、教材の登場人物について語る「三人称モード」、登場人物と自分自身両方に言及し関連づける「中間的モード」がある。この「中間的モード」での語りが、登場人物と自分を置き換えて考える「置換」や、話の続きを想像や他の場面の想起など教材に記述されていない内容を考える「予想」、自分の価値観を明確に表明して教材と関連づける「表明」などの思考の働きを担った語りとなる。
このような、自分のことだけでなく、教材と自分とつなぐ「中間的モード」の語りが授業の会話の中で出てくることが重要である。

司城紀代美「道徳授業における話し合い活動の在り方」

ということがわかっています。
 この研究の結果からも、教材に提示されている場面や状況の中で考えることも、子供の「中間的モード」の語りを引き出すことができれば、子供は自己を見つめたり、自分の生き方について考えを深めたりしていることがわかります。

3 思考がはたらくとは

 また、東京大学教授の佐伯胖氏は、道徳に限らず、どの学習においても、子供が自分の文脈(文化)の中で意義を確められ実践と結びついたときに思考が働くと述べながらも、次のように述べています。
「題材が身近なものであれば、必ず子どもの思考がはたらく保証はない」
「題材だけは身近なものであっても、子供自体としてはあまりカンケイナイとみなしている場合は思考が全く働かないのである」

つまり、教師が子供の生活場面に置き換えて考えさせようと試みても、子どもにとってあまり関係性を感じないのであれば、子供の思考は働かず「考えていない」状態にあるのです。その結果、表面的な言葉だけが表出され、道徳的価値の理解が深まることがないということもいえるのである。

ではどうすれば、子供が教材と自分との繋げて考える「中間的モード」を引き出し、道徳的価値の理解を深めていくことができるのでしょうか。

次号は、その三つの方略について迫ってみたいと思います。

*私のnoteでは、2週間に一度、「道徳科の授業づくり」について書いております。興味のある方はフォローして頂けると幸いです。

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