読書_中世シチリア王国
中世シチリア王国は、12世紀の1130年にイタリアのシチリアに建国されたノルマン人の王国だ。
中世ノンマン人はスカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人で、バイキングとしてヨーロッパを荒らしまわり、フランス北部を領土化(ノルマン地方)、そしてイギリスを征服した。そして、かれらの一部は南イタリアに傭兵として戦い、やがて領土を得て、ビザンツ帝国と南イタリアを争い、戦い最終的には当時イスラム圏だったシチリアを征服しシチリア王国を建てた。
絶対数の少ないノルマン人は、配下の武将や統治のシステムや文官を、それまでのものを活用した。イスラム教徒のアラブ人が配下の武将として戦い、イスラム教徒の宦官やビザンツ文官が文官として政治や宮廷文化を作り上げた。ノルマン人の王はカトリック教徒ではあったが、アラブ語を操りイスラム教徒の学者たちと自然科学について話した。信じるものは救われるという暗黒時代を過ごした中世の西洋人より、ギリシアローマから古典を学び学習したイスラム教徒の方が遥かに文明人だったのだ。
首都パレルモは多くの人種と宗教が入り混じる国際都市だった。
王宮はイスラム、ビザンツ、カトリックの様式が入り混じる装飾で彩られた。
14世紀のルネッサンスに先駆け、ギリシア語やアラビア語で書かれた多くのギリシア・ローマ時代の古典をカトリック圏の中心言語であるラテン語に翻訳したのはシチリア王国だった。
ルネッサンスの精神が「カエサル(世俗)のものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」とするならば、ルネッサンスより2世紀も前にシチリア王国が成し遂げていた。
大きな地震が起こったときシチリア王ウィレムス2世は宮廷で働くさまざま宗教を信じる人たちに「おまえたち、おのおのが崇めるものに、信じるものに加護を祈願せよ」と言った。
しかし、ノルマン人たちのシチリア王朝は若くして亡くなる王が多かったこともあり1世紀を持たすことができなかった。1194年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に首都パレルモを制圧されノルマン王朝は終焉を迎えた。しかしハインリヒ6世の妃がシチリア王朝の血筋であったため、2人の子であり、皇帝フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝であるとうより、ノルマン王朝の後継者だった。彼は神聖ローマ帝国の中心であるドイツへは行かず、大半の時間を南イタリアで過ごした。人生の大半をローマ教皇と争うことになるのだが、その時活躍したのは教皇の破門状を恐れる必要がないイスラム兵たちだった。皇帝フリードリヒ2世についてはまた別の機会に。
というのが、シチリア王国の簡単な概要。
本書は新書ながらシチリア王国について詳しく解説した珍しい本です。
ノルマン人は数が少なかったので、最初はシチリア内で対立するイスラム勢力同士の同盟者として、やがて大きな勢力となりますが、武力行使はできないので交渉で徐々に20年もの歳月をかけて支配下に入れていったようです。
そこで烏合の衆の長にならず、反乱した諸侯を厳しく罰則することで国王の力を増していきます。
統治面ではイスラム・ビザンツの優れた制度と人材を活用します。それまで別々の組織だったイスラムとビザンツの組織をノルマン王朝の中で巧みに組み合わせていきました。
治世が続くごとに王国独自の制度が整備されていきます。絶対権力をもった王のもとに王国最高顧問団が形成され、そのもとに宗教にとらわれない優秀な官僚が登用されました。当時のヨーロッパはフランスやスペインなどの絶対王政が登場するずっと前に、このような官僚機構をもった国はありませんでした。フランスやスペインはキリスト教徒だけなので、さまざまな民族と宗教を組み合わせたノルマン・シチリア王国はその上をいっていたかもしれません。
最後に本書から離れてその後のシチリアを書きます。
ノルマン王朝の遺産を受け継いだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、後の時代のフランス・スペインのような絶対王政を目指しました。しかしイタリア統一など絶対に許せないカトリック教皇と激しく戦うことになります。そして彼が生きている間はイタリアを2分した戦いに勝敗がつくことはありませんでした。
そして息子の代で教皇を支持したフランスの大軍によって滅ぼされてしまいます。フリードリヒ2世が目指した絶対王政はフランスが先に実現したのです。やがて南イタリアはフランス、シチリアはスペインが統治するようになり、イスラム教徒はすべて追い出されてしまいました。異なる民族、宗教を織り込んだ王国の夢は消え去りました。そしてシチリアがヨーロッパ社会の中心に戻ることはありませんでした。