[読書] MARCH 1 非暴力の戦い
八村選手のNBA入りを切っ掛けに、NBAを再び見るようになった。いろんなチーム、選手を見るなかでジミー・バトラーという選手を知った。そしてジミー・バトラーを通じてジョン・ルイスという人物を知ることができた。
ジョン・ルイスは1950-60年代の公民権運動で重要な役割を果たした人物で、1987年から亡くなる2020年まで下院議員を務めた人物だ。
バトラーは「BLACK LIVES MATTER」問題に取り組むNBAの中で、ジョン・ルイスの言葉を引用した。
絶望の海で迷子にならないように、希望を持って、楽観的になりましょう。私たちの闘いは、一日、一週間、一ヶ月、一年の闘いではなく、一生の闘いなのです。
決して、騒ぐことを恐れないで、良いトラブル、必要なトラブルに巻き込まれることを恐れてないで。- ジョン・ルイス
僕は恥ずかしながらジョン・ルイスという人物を知らなかった。そして「BLACK LIVES MATTER」問題を理解する上で重要な1950-60年代の公民権運動についても知らないことに気が付いた。
マーティン・ルーサー・キング牧師の「I hava a dream」という言葉と、映画で「マルコムX」を見たことぐらいだ。
そんなわけでジョン・ルイスの自伝漫画である「MARCH」シリーズを読むことにした。この漫画シリーズはジョン・ルイス氏の若いスタッフの進言により作られた。マーティン・ルーサー・キング牧師の公民権運動なかで、漫画が重要な役割を果たしたことがあったので採用されたそうだ。
ジョン・ルイス氏は1940年にアラバマ州の農家に生まれた。小作農だった父親はルイス氏が生まれた年に稼いだ金をすべてつぎこんで現金で土地を買った。ルイス氏が子供のころは公民権運動はまだ広がりをみせておらず「問題を起こすな、白人のじゃまをするな」と言ってルイス氏を育てた。当時のアメリカ南部で黒人が波風を立てることはとても危険だったのだ。
1951年、ルイス氏は叔父と二人で叔父の車で北部へ旅行へ行く。南部を出るまで黒人に提供するレストランは無かった。そして黒人用のトイレがどこにあるのか、危険な場所がどこにあるのか知っていなければいけなかった。17時間かけバファローについたルイス少年は黒人の家の隣に白人が住んでいることに驚く。南部では考えられないことだったのだ。
1954年、高校生になったルイス氏は衝撃的なニュースを知る。最高裁が公立学校での人種を別にすることが違憲との判決が下ったのだ(ブラウン対トピカ教育委員会判決)。これにより「分離すれど平等」という原則が崩れた。当時のアメリカは白人専用のトイレがあり、白人だけ食事を提供するレストランが当たり前であり、白人専用の公共交通機関の席があるように白人とそれ以外を明確に分離していたのだ。
1955年、ルイス氏はラジオでマーティン・ルーサー・キング牧師を知った。そして8月に衝撃的な事件が起きる。
北部から親戚を訪ねてきていた14歳のエメネット少年がミシシッピ川で死体で発見された。前日に白人の女性店員に「じゃあねベイビー」と挨拶したことに激高した白人2人に殺されたのだ。小作人であった親戚の叔父は裁判で白人2人に引きずり出されたことを証言(勇気のある行動だった)。しかし、全員白人の陪審員は無罪を判決。裁判が終わった後に2人はエメネット少年を殺害したことを告白した(裁判が終わっているので何も起きないことを理解した上の行為)。
そして、その年の12月にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が起こる。
白人にバスの席を譲らなかったローザ・パークス氏が逮捕された。ローザ・パークス氏は殺されてたエメネット少年のことを考えていたという。その事件を知ったマーティン・ルーサー・キング牧師はボイコット運動を指揮し(バスに乗らずに自家用車を乗り合わせるなどした)、一年以上に渡るボイコットの末に連邦裁判所は人種隔離政策に違憲判決を下した。
市バスは乗客の3/4が黒人であったのでボイコットのため経済的打撃を受けた。それにも関わらず連邦裁判所が判決を下すまで態度を改めなかったのだ。
働きながら学べる神学校の大学へ進んだルイス氏は、マーティン・ルーサー・キング牧師と直接会う機会を得る。黒人の入学を認めていない大学へ編入活動をしようと相談したのだ。しかし、編入活動計画は両親の承諾を得ることができず断念。両親や親族が暴力を受けたり、家が燃やされる危険があったのだ。
1958年 ジョン・ルイス氏は友和会という団体を代表している大学院生のジム・ローソン氏から人種隔離を無くすための「受動的抵抗」「非暴力行動」や、インドにおけるガンジーの活動を知る。友和会はそれらの原則を説明した「マーティン・ルーサー・キング牧師とモンゴメリー物語」という16Pのコミックも出版していた。
ジョン・ルイス氏は「受動的抵抗」「非暴力行動」こそが解決策だと思い、ダイアン・ナッシュ氏たちと共に活動を始める。「ナッシュビル座り込み」活動だ。
ジョン・ルイス氏たちは非暴力をつらぬくために、あらゆるシミュレーションをした。どんな挑発にも乗らない方法。やり返さないで自分たちを守る方法。そして襲ってくる相手を愛する方法。
いくつかの実験を繰り返した上で、1960年に座り込み運動を開始した。当時、レストランのカウンター席に黒人が座ること、食事の提供を受けることは許されなかった。そこで学生たちは大人数で店へ押しかけカウンター席へ座り、礼儀正しく食事の提供を求めた。
最初に座り込みを実行したのはコミックを読み「受動的抵抗」「非暴力行動」を知った別グループ、ルイス氏たちのグループはその翌週から活動開始した。1960年2月7日15センチも雪が積もる寒い日だった。
1960年2月26日 座り込みを行った場合は逮捕するとナッシュビルの警察署長から警告を受ける。それでも翌日に座り込みを決行した。グループの一部は白人グループから暴行を受けた。白人でありながら座り込み活動に参加したポール・ラブラド氏が特に狙われた。ルイス氏たちはそれでも非暴力をつらぬいた。暴行した白人グループが去るのを見計らって警察が店へやってきてルイス氏たちを逮捕した。
ルイス氏たちの弁護士は西インド諸島出身のベテラン弁護士であるアレクサンダー・ルービー氏が務めた。判決は50ドルの罰金か、30日の労働。ルイス氏たちは労働を選んだ。ルイス氏たちが労役所に入れられると全米から怒りの声があがった。人種差別問題で先進的とされていたベン・ウェスト市長は1960年3月3日に釈放を命じた。同日、大学側はジム・ローソン氏の退学処分を命じたが職員や教授たちの反対しニュースになったことで断念した(wikipedeiaでは除籍とある)。
ルイス氏たち学生たちの活動に刺激を受けた黒人住人たちはナッシュビル繁華街全体へのボイコットを敢行。
そして学生非暴力調整委員会(SNCC)が組織される。
1960年4月19日早朝、アレクサンダー・ルービー氏の自宅がダイナマイト投げ込みにより爆破される。家は大破したが奇跡的にもルービー氏も家族もケガを負わなかった。
同日、テネシー大学から市庁舎へ何千人ものデモを行い、市庁舎前でダイアン・ナッシュ氏たち代表とウェスト市長が会談。市長は人種差別撤廃と、店長次第としながらもランチ・カウンター差別撤廃の指示を約束した。
そして1960年5月10日。ナッシュビルの繁華街6店舗が初めて黒人に食事の提供を行った。
モンゴメリー・バス・ボイコット事件のあと、マーティン・ルーサー・キング氏たちの活動は停滞していた。その状態を座り込みという「受動的抵抗」で一歩すすめたのはジョン・ルイス氏たち学生たちだった。
こうして公民権運動はさらなる広がりをみせてゆく (MARCH 2へ続く)
感想
この本はコミックという形態もあり、とても分かりやすい。小学高学年くらいから十分に読める内容だ。この本は多くの学校の図書室や、行政の図書館に置いていないのではないだろうか?本屋でも見かけることはない。
現在にも続く一部の人種差別主義者の行動も驚くが、アメリカが法治国家であること(学生グループが殺されたり、どこへ行ったか分からない状況になっていない)、不完全ながらも黒人たちにも大学などの高等教育を含む教育を受けられる状態だったこと、連邦裁判所が適切な判断をしていたことなど、公民権運動を成功させる要因をいくつも持っていたことに驚く。
アメリカ合衆国は時に無茶苦茶なことをするし、戦争ばかりしているので全面的な支持はできないけど、こういう可能性を持っているところは尊敬に値すると思う。