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[読書] 「MARCH 2 ワシントン大行進」公民権運動・BLACK LIVES MATTERを知る

1960年代のアメリカ公民権運動のジョン・ルイスの自伝コミックの第2巻(全3巻)。

MARCH 1 非暴力の戦い
* MARCH 2 MARCH 2 ワシントン大行進 (本書)
* MARCH 3  セルマ 勝利をわれらに 

第1巻ではキング牧師のモンゴメリー・バス・ボイコット事件や、ジョン・ルイスたち学生たちによるナッシュビル座り込み運動など非暴力運動によって人種隔離政策の一部が緩和されるようになった。

第2巻では人種隔離を推進していたアメリカ南部各州による本格的な反撃、ジョン・ルイスたち公民権運動活動家たちの活躍、両陣営との間に揺れる連邦政府を描いている。

第1巻での警察は一般白人たちの暴力を傍観していたが、第2巻のころになると積極的に暴力をふるうようになる。現在も続く警察官による暴力だ。

フリーダム・ライド

第2巻の前半の山場はフリーダム・ライドの話。
バスターミナルの人種隔離は最高裁判所の判決により違法とされた(1960年)。しかし実際には各州の自治と慣習のもとに人種隔離政策は強固に維持されていた。そこで人種平等会議(CORE)による「フリーダム・ライド」計画が実行された。
南部各州の白人社会はこの計画に激怒。
その結果、1台のバスが火炎瓶で炎上され、サウスカロライナ州ロックヒル、アラバマ州アメストン、バーミングハム、モンゴメリーで暴行襲撃され、ノースカロライナ州シャーロット、サウスカロライナ州ロックヒル、ミシシッピ州ジャクソンでは逮捕された。
では南部の白人たちを激怒させた「フリーダム・ライド」は、どういうことをしたのだろうか?
なんと、白人と黒人が一緒に隣り合わせで長距離バスに乗っただけだ。
当時の南部の白人たちは、たったこれだけで彼らの文化を破壊する活動と認識し、暴力行為を繰り返したのだ。

バーミングハムで暴行を受けた61歳の白人のバーグマン博士は脳に深刻なダメージを受け、1999年に100歳で亡くなるまで車いす生活を余儀なくされた。さらにジョン・ルイスたち一行は警察に不当逮捕された上に州境のKKK(白人至上主義団体、多くの有色人種をリンチ殺人したことで有名)のエリアに置き去りにされた。
なんとかバーミングハムに戻ったジョン・ルイスたちは、次のモンゴメリーで集団暴行にあいリンチ殺人される寸前の状態になった。
なんとか教会に逃れ、ニュースを聞いて集まったキング牧師たち1500人と集会を開くと、教会の外は多くの白人暴徒で取り囲まれた。焼き討ちの可能性もある状況だ。キング牧師は連邦政府の司法長官ロバート・ケネディ(ジョン・F・ケネディ大統領の弟)に掛け合い、州兵を派遣してもらうことで危機を脱した。
州兵警護されバスターミナルからバスに乗り目的地ミシシッピ州ジャクソンに着くと、その場で逮捕された。
刑務所ではマットレスを没収され、水を浴びせされられた。
このニュースを聞き、多くの人々が、この危険なフリーダム・ライドに参加した。そして、司法局と司法長官ロバート・ケネディは州際通商委員会(ICC)に働きかけ、バスターミナルの人種隔離が撤廃させた(1962年9月22日)。

「黒人と白人が一緒にバスに乗るだけ」という今となっては当たり前のことと、それを阻止するための直接的な残虐な暴力と、各州の行政による暴力に絶句した。
注意しなくてはいけないことは南部の白人たちは狂人でもなければ特別に残虐な人々というわけではないことだ。ただ、自分たちの慣れ親しんだ文化の継続を望んでいただけだ。信じるものが否定されたときに人間は恐ろしいまでに暴力的になる。それは当時の南部の白人たちだけではない。

アラバマ州での戦い

1963年1月14日。アラバマ州知事就任式でジョージ・ウォレス知事は南北戦争の南部連合の話を引き合いに出し、
さらに
「今ここで人種隔離を 明日も人種隔離を 永遠に人種隔離を」
と宣言した。

ジョン・ルイスたちのSNCC(学生非暴力調整委員会)からSCLC(南部キリスト教指導者会議)へ移ったジム・べヴェルという人物が非暴力運動の未成年への教育を実施した。
そして、1963年5月3日に事件が起きた。
アラバマ州バーミングハムで、前日の5月2日に1000人以上の逮捕者を出した未成年たちのデモに引き続き、5月3日も未成年のデモが決行された。デモには高校生だけではなく、小中学生たちも多く参加していた。
市警を仕切っていたブル・コナーはデモに参加した子どもたちに木の皮を剥がす程の水圧の放水を浴びせかけ、犬を放ちデモを蹴散らした。
全米にテレビ放映された光景に全米がショックを受けた。あまりに度を超した行為だった。世論は動き、1週間後にバーミングハム市は人種隔離政策の撤廃と公正な雇用に対する努力をする協定が成立した。

子供たちを危険にさらす行為が良いのか分からなかった。子供は教育次第で何色にも染まる。子供の善意を利用するような行為にも思えてしまった。しかし、何もせずにいたら成長した子供たちが困難に向き合うことになる。難しい問題である。

ワシントン大行進

細かいことはこのnoteには書かなかったが、公民権運動における黒人たちの活動は決して一枚岩とは言えなかった。そんな各団体が協力し、ジョン・F・ケネディ大統領の教育のもの実現したのが「ワシントン大行進」だ。

キング牧師が 「I have a dream!(私には夢がある)」と高々に理想を掲げた歴史的な出来事だ。

SNCC(学生非暴力調整委員会)の委員長となっていたジョン・ルイスは、このときの中心メンバー「ビック・シックス」の一員として歴史に名を残すことになる。

労働オーガナイザー: A・フィリップ・ランドルフ
南部キリスト教指導者会議(SCLC):マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
人種平等議会(CORE): ジェームズ・ファーマー・ジュニア
学生非暴力調整委員会(SNCC):ジョン・ルイス
全国都市連盟:ホイットニー・ヤング、ジュニア
全米有色人地位向上協会(NAACP):ロイ・ウィルキンズ

スピーチの内容に関してギリギリの討論が行われる。

僕はこの本を読むまで「ワシントン大行進」こそが公民権運動のクライマックスだと思っていた。しかし、実際はそんな話ではなかった。
その後も公民権運動の各団体はまとまりきれない状態が続く。
さらにマルコムXやストークリー・カーマイケル(ジョン・ルイスの後でSNCCの委員長となる人物)など、非暴力では現状を打破できないと考える勢力も出てくる。

そして、キング牧師が、子供たちが肌の色に関係なく仲良く生きる夢を語ったワシントン大行進の3週間後に、バーミングハムの教会で爆破テロ事件が起きる。4人の子供が亡くなった(3巻へつづく)。

2019-2020シーズンのNBAプレイオフにて選手会とNBAが協力してBLACK LIVES MATTER問題について情報を発信することになった。ワシントン大行進が行われた8月28日にはNBA各チームはワシントン大行進と団結をSNSを通じて呼びかけた。アメリカ人にとってとても重要な出来事なのだ。


ケネディ兄弟の物語

この本のもう一人の主人公が司法長官だったロバート・ケネディだ。

司法長官ロバート・ケネディと兄のジョン・F・ケネディ兄弟に関してはさまざまな評価がある。ベトナム戦争への介入はジョン・F・ケネディが決めたことだし、キューバ危機や女性問題に関しても側面が多々あっただろう。公民権運動に関しても当初はそれほど真剣に考えていなかったと思う。

本書では描かれていないが、ロバート・ケネディはキング牧師に盗聴をしかけたり、フリーダム・ライド計画に対しても批判的な態度だった。しかし、公民権運動家の熱意にうたれ態度を変えてゆく、モンゴメリーの教会焼き討ちの危機を救ったのはロバート・ケネディの断固たる決意だった。その後、バスが用意されたのもロバート・ケネディがバス会社へ強く要請したからだ。
バスターミナルの人種隔離撤廃が1962年9月22日だが、ケネディ兄弟はほとんど同じ時期の1962年の秋にはキューバ危機に直面していた。世界が最も核戦争に近づいた時期だ。核兵器の先制攻撃に強く反対し、事態を打開したのはケネディ兄弟と言われている(諸説あり)。さらにロバート・ケネディは司法長官としてマフィアとも戦っていた。さらに公民権運動で白人至上主義者との戦いもはじめた。

ジョン・F・ケネディ大統領が1963年に、そしてロバート・ケネディが1968年に暗殺されたのは敵が多過ぎたためかもしれない。

ロバート・ケネディは公民権運動家たちとの交流を経て相手の立場になって考える人物となっていた
ワシントン大行進の前、ジョン・ルイスと合ったロバート・ケネディは
「君をはじめ、SNCCの若者たちが私を教育してくれた。君たちが私を変えたのだ。ようやく分かった」と語った。
ジョン・ルイスはロバート・ケネディを信頼し、後にロバート・ケネディの大統領選へ協力した。

Netflixに「ロバート・ケネディを大統領に」(2018年)というドキュメントがある。当時を振り返るインタビューでジョン・ルイスがロバート・ケネディ暗殺事件を涙を流しながら語っている。このドキュメントについては別の機会に書こうと思う。







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