「私」が「ありありとしている」ことについて
まえがき
本論文では、「私」という概念の構造を解明する。その過程で、本論文における「私」とウィトゲンシュタインの「私の主体としての用法」の議論における「私」を同一視することによって、ウィトゲンシュタインが考える独我論を、補いつつ取り込む。さらに、他者というものを考えることで生じる歪みを覆い隠すために、「心」という概念が作り出される様を描く。また、第4章までは、「今」という概念についても、その構造の解明が、「私」という概念について行われるのと並行して、行われる。
第0章では、導入として、哲学の研究対象となるために十分となるような、概念がもつある種の構造について述べる。
第1章では、「私」という語が、「「私」と言う者」という意味を持つ語としてではなく用いられる場面があることを示す。また、そのような場面において用いられる「私」の語が、「他のありありとしているものがあってはならないありありとしているもの」という概念であることを示す。また、「今」という語が、「他の生々しいものがあってはならない生々しいもの」という概念として用いられることがあることを示す。
第2章では、第1章で解明の対象となった「私」という概念を離れ、「私」という語を自由に用いて思考する。その結果、そのような思考において用いられる「私」という語が、第1章の「私」という概念と同一のものであることが明らかとなる。また、「今」について、同様の思考を試み、同様の結果を得る。
第3章では、ウィトゲンシュタインの「「私」の主体的としての用法」についての議論を手掛かりに、「ありありとしているもの」の下位概念が、主体として用いられた「私」の語を主語とすることで有意味な文を作るような述語として見出されることを明らかにする。また、「生々しいもの」の下位概念が何であるかを検討する。
第4章では、他者を記述することができないはずであるところの、主体として用いられた「私」の語を主語とすることで有意味な命題を作るような述語を用いて、他者を記述する方法を検討する。さらに、「心」という概念の導入により、本論文が研究対象としてきた「私」の概念を用いずに世界を記述するが可能となることを論じる。
終章では、永井均のシドニー・シューメイカー批評を批判する。
各章は、0でない自然数n, mを用いて「n-m」の形で書かれる見出しを持つ部分に分かれる。「n-m」の形で書かれる見出しを持つ章の部分を、本論文では「節」と呼ぶことにする。
第0章 哲学の研究対象となりうるもの
研究は、おおまかに言って、見出し、名付け、知らしめる研究と、名付けられ、知られているものが何であるかを解明する研究に分かれる。見出し名付け知らしめる研究によって、何らかのものは見出され、名付けられて知らしめられ、名付けられて知られているものは、何であるかを解明する研究によって、様々な性質を持つことが明らかとなる。動物の骨に見える石からティラノザウルスにあたる生物は見出され、ティラノザウルスという名を付けられて知らしめられ、ティラノザウルスという名が知られていることによって、各地でティラノザウルスの化石がティラノザウルスの化石として見出され、ティラノザウルスが肉を食べる動物であることや、体毛を持つことなどが明らかにされる。
哲学の研究は、見出し名付け知らしめる研究と、名付けられて知られているものが何であるかを解明する研究のどちらでもなく、強いて言えば、名付けられて知られてはいるが何であるかいつまで経ってもわからないものを対象として行われる研究であると言える。
自由は哲学の研究対象である。自由はよく知られており、ヒトは自由な動物であるとされる。自由なものとは何であるかを説明しようと試みると、「自ら行為しうるもの」とか「自らの自由意志で行為するもの」とか、同語反復的な説明をすることしかできないことが明らかになる。そこで、自由なものが何であるかを、それそのものの性質が何であるかという形式で説明するのではなく、他のものとの関係で説明することを試みる。自由なものは行為するが、他のものにその行為を妨げられると、自由に行為することができなくなる。このことから、「自由なものは、拘束されうるものである」とわかる。では、拘束されうるものは、必ず自由であるか。動物をオリに閉じ込めれば、拘束することができる。よって、動物は拘束されうるものである。しかし、石をオリの中に置いて閉じ込めても、石は拘束されていると考えることはできない。なぜなら、石は自由だとは考えられないからである。このことから、あるものが拘束されうるものであるか否かの判断の基準に、そのものが自由であるか否かという観点がすでに食い込んでいることがわかり、「自由なものでなければ拘束されえないとしか考えられない」、すなわち、「拘束されうるものは自由なものであるとしか考えられない」ということがわかる。
自由は、哲学の代表的な研究対象であるから、自由と同じ構造を持つ概念は、哲学の研究対象となりうると考えられる。その構造とは、A、Bを概念として、「AはBである。BはAであるとしか考えられない」というものである。そして、このような構造のもとでは、Aが何であるかを解明するためには、Bが解明されねばならず、しかし、Bの理解にはAの理解が不可欠であるということになり、AとBが何であるかは、いつまで経ってもわからないということになる。
上の構造は、善という概念にも見出せる。善は求められるものである。では、「求める」とは何か。ある人が行う行為は、必ず、それが行われることをその人が求めるがゆえになされる行為であるか。そうではない。例えば、「あせもを掻きむしる」という行為をする人は多くいるが、あせもが搔きむしられるというのは善いことではないから、そのような行為がなされることは求められているとは考えられない。このことから、善は、「求める」という行為がなされたかどうかの判断基準にすでに食い込んでいることがわかり、善が、「善は求められるものである。求められるものは善であるとしか考えられない」という構造を持つことがわかる。
本論文では、「私」という概念を研究する。これに際し、「私」という概念が持つ、「私はありありとしている。ありありとしているものは私であるとしか考えられない」という構造に着目する。また、第4章までは、「今」という概念についても、同様に研究する。
第1章 「私」という概念
本章では、特定の種類の文において用いられる「私」の語に着目し、その語がどのような概念であるかを解明する。また、それと並行して、「今」という概念の解明を行う。
1-1 バイデンが私であり、かつ、トランプが私である
「米大統領バイデンが私であったら」と思考することは可能である。この思考において、「バイデンが私である」という事態が想定されている。このような、Pを人物としたときの「Pが私だったら」という思考における「私」という名詞を、「私1」と書くことにする(*)。
* 本論文では、以後、鍵括弧で囲まれた「私1」の文字列で、「私1」という名詞をあらわすこととする。鍵括弧に囲まれていない「私1」の文字列は、そのまま読めばよい。後に登場する「今1」についても同様とする。
では、この「私1」を用いて、「米大統領バイデンが私1であり、かつ、米前大統領トランプが私1であったら」と思考することは、可能であろうか。この思考においては、「バイデンが私1であり、かつ、トランプが私1である」という事態が想定されているが、このような事態が可能であればそれを想定することは可能であり、不可能であれば想定することは不可能となる。
「バイデンが私1であり、かつ、トランプが私1である」という事態が可能であるか否かを検討すると、この事態が可能でないことは、次のように論証されるとわかる。
上の論証には、「私1」という概念のある特徴があらわれている。それは、それに該当するものが複数あることはあり得ず、該当するものが仮にあったとしても1つであるということである。このことは、論証に反して、「バイデンが私1であり、かつ、トランプが私1である」という事態を無理に想定してみることにより明確になる。このような事態は、「バイデンとトランプが同一人物であり、バイデン(=トランプ)が私1である」という事態としてしか想定できないのである。
「私1」は人物の固有名詞(人名)であるとも考えられるが、そのように考えることはできないことが、「徳川家康」という人名を用いて、「織田信長が徳川家康であり、かつ、豊臣秀吉が徳川家康である」という事態について考えるとわかる。徳川家康が自身の生涯を閉じるふりをして、若返るとともに過去にタイムトラベルして織田信長として生き、その生涯を閉じるふりをして、若返るとともに過去にタイムトラベルして豊臣秀吉として生き、その生涯を閉じれば、長篠の戦において、「織田信長と豊臣秀吉は別の人物であり、織田信長が徳川家康であり、豊臣秀吉が徳川家康である」という事態が成立することになる。他方で、「織田信長が私1であり、かつ、豊臣秀吉が私1である」という事態は考えられない。したがって、「私1」は、人物の固有名詞であると考えることはできない。
「私1」が人物の固有名詞であるとは考えられないので、「私1」は、「「私」と言う者」、あるいは、「「私」と思考する者」を意味する指標詞としての「私」であるとも考えられない。「私1」が指標詞としての「私」であると解釈すると、「人物Pが私だったら」という思考において、「私1」は、指標詞としての機能から、「人物Pが私だったら」という思考をする者の名前と同様に働くことになるからである。また、「私1」が指標詞としての「私」でないことから、「人物Pが私だったら」という思考において想定されている「人物Pが私である」という事態は、その思考をしている者がどの者であるかということとは無関係の事態であり、思考している者がどの者であろうと、同じ一つの事態となることがわかる。
以上で、「私1」という語は、それを言ったり思考したりする者がどの者であるのかということとは無関係な、「該当するものが仮にあったとしても1つである」という特徴を持つ、人物の固有名詞でない名詞であると明らかになった。
「バイデンが私であったら」という思考に相当する、「今」という語を用いた思考は、「1600年が今であったら」である。この「今」を「今1」と書くと、「2023年が今1であり、かつ、1600年が今1であったら」という思考について考えることで、「私1」と同様に、「今1」が「該当するものが仮にあったとしても1つである」という特徴を持つ名詞であることがわかる。また、「今1」が、「「今」が言われた時点」、または、「「今」が思われた時点」を意味する指標詞でないことは、「1600年が今1だったら」という思考における「今1」を指標詞としての「今」が指す特定の時点に置き換えると、意味をなさなくなることからわかる。
ここで、「私1」と「今1」について、次のことを注意する。「私1」及び「今1」は、「バイデンが私であったら」、及び、「1600年が今であったら」という仮想的な事態についての思考において見出された概念であるが、だからといって、これらの概念が、仮想的な事態についての思考を表現する文においてのみ用いられうるということにはならない。
1-2 「私」という、それに該当するものがあっても1つしかない概念
本節では、「私1」という名詞が何であるかを調べる。それをするには、私1が存在すると仮定して、私1が何であるかを調べればよい。そこで、私1が存在すると仮定する。
私1は、存在しているとの仮定のもと存在しているので、ありありとしている。
ここで、私1でないありありとしているものが存在するような事態を考えられるかどうかを検討する。これを肯定する主張は、次のようになる。
これに対しては、次のように反論できる。
上の反論から、私1でないありありとしているものが存在するような事態を考えることはできないということがわかった。これを言い換えると、「ありありとしているものは私1であるとしか考えられない」となる。以上の結果をまとめると、次のようになる。
思考可能でないということを、あってはならないということであると解釈して、後半を変形すると、次のようになる。
さらに変形すると、次が得られる。
よって、次が得られる。
前半と組み合わせると、次のようになる。
「私1’’」を変形すると、「他のありありとしているものがあってはならないありありとしているもの(「私1’」とおく)」となる。私1’に該当するものが存在すれば、それは1つである。なぜなら、私1’に該当するものが複数ある場合、それらのいずれもについて、そのものの他にありありとしているものが存在することとなり、それらのものは私1’でないことになるからである。
ここまでで、私1が存在すると仮定すると、それは私1’に該当することがわかった。逆に、私1’が存在すると仮定すると、私1’はありありとしているただ1つのものであり、ありありとしているただ1つのものは私1であるとしか考えられない(*)。よって、「私1」と「私1’」は概念として一致するとわかり、次のようになる。
* この段落において、「ありありとしているただ1つのものは私1であるとしか考えられない」ということが主張され、このことから「私1」と「私1’」が概念として一致することが導かれているが、これは根拠の怪しい主張である。この主張を拒否する場合は、次の手順で読めばよい。まず、本章のこの段落より下の部分は、「私1’」についての議論として理解可能であるので、そのように読めばよい。次に、第2章においては、この根拠の怪しい主張なしに、「私0」が「私1’」(同章では、本章の結果を受けて、「私1」と同一視されている)と概念として一致することが示されているので、それを見届けたあと、「「私1」という概念を「私0」という概念から区別する必要はない」ということを納得し、第3章に進めばよい。
再び、私1が存在すると仮定すると、ありありとしているものは私1であるとしか考えられなくなる。これを、上に適用すると、次が得られる。
逆に、他の私1があってはならない私1が存在すると仮定すると、それは私1である。したがって、これらの概念は一致し、次が得られる。
「私1’」は名詞であると見做すことができるが、これが一般名詞ではなく、ただ1つのもののみを指す名であることが、拙論『私・今・神という「名」~「私」という名を発端にして~』( https://note.com/udon_tarou/n/n7d9d5448e5a9 )の第1部第2章における議論と同様の議論によって示される。以下では、それとは異なる方法で、「私1」が固有名詞であることを示すことにする。
固有名詞は、ただ1つのものを指すとされる。他方で、「xxxx」という文字列で書かれる一般名詞(例えば「みかん」)は、「xxxxである」(「みかんである」)という性質を満たすものとしてxxxx(みかん)を探し出す働きをする。そこで、「yyyy」と書かれる固有名詞(例えば「アリストテレス」)も、「yyyyである」(「アリストテレスである」)という性質を満たすものを探し出すという点では一般名詞と変わらないものの、「yyyyである」という性質が特殊な性質を持つために、これに該当するものがただ1つになってしまうのであると考えることにする。アリストテレスは1つであるから、「他のアリストテレスであるものがあってはならないアリストテレスであるもの」という名詞句を作ってみると、これに該当するのはアリストテレスのみである。そこで、「yyyy」と書かれる名詞が固有名詞であるということを、「yyyyである」という性質が、「yyyyであるものは、他のyyyyであるものがあってはならないyyyyであるものである」という条件を満たすということであると考えることにする(*)。
* 「唯一の山」は、上の条件を形式的には満たすが、一般名詞となる条件を備えていないので、ただ固有名詞にならないと考えられる。一般名詞とならないのは、あるものが「唯一の山である」という性質を満たすかどうかは、そのものを見るだけではわからないからである。
「私1」について、上の条件を満たしているかどうかを検討すると、「私1であるものは、他の私1であるものがあってはならない私1であるものである」ことから、「私1」は固有名詞であるとわかる。
後の便宜のために、ここで、「生き者」という語を導入し、「私1でありうるもの」のことを「生き者」と呼ぶことにする。「私1でありうるもの」とは、「私1である」という属性を帯びたものが属しうる種類をすべてあわせて1つの種類としたものである。「黒い」という属性について、その属性を帯びたものが属しうる種類の例は、「鳥」である。なぜなら、カラスは黒い鳥であるため、「鳥」という種類に、「黒い」という属性を帯びたものが属しうるからである。そして、「黒い」という属性を帯びたものが属しうる種類をすべてあわせて1つの種類としたものの下位概念には、「鳥」や「類人猿」が含まれることになるが、「水」や「空気」は含まれないことになる。
ここまでの「私1」についての議論と同様に、「今1」についても、今1が存在すると仮定して考えることで、下が得られる。
* 『私・今・神という「名」』の第3部第1章では、「なぜカレンダーと時計を一瞥するだけで、今が西暦何年何月何日何時何分何秒かわかるのか?」という問いを検討し、「今」とは、「出会われうる他の時点があってはならない出会われうる時点」のことであるとの結果を得た。「時点」を、下の段落で定義されるものと解釈し、「出会われうる」を「生々しい」と置き換えると、これは「今1」と一致する。
** 数個前の注で、「ありありとしているただ1つのものは私1であるとしか考えられない」という主張は根拠が怪しいということを指摘したが、これに相当する「今1」についての主張は、「生々しいただ1つのものは今1であるとしか考えられない」である。何らかの世界を考えるとき、今1を持たない世界というものは考えることができないことから、この主張は根拠があやしいとは考えられない。
また、後の便宜のために、「今1でありうるもの」を「時点」と呼ぶことにする。ここで、「今1でありうるもの」とは、「今1である」という属性を帯びたものが属しうる種類をすべてあわせて1つの種類としたものである。
最後に、第2章の準備として、第3章での議論を先取りしつつ、少し考える。
私1が存在し、私1が見出された場合、私1を見出した者はどの者であるか。「見出す」という行為は、「私1がある!」との思いなど、なんらかの「感じ」を伴うが、ありありとしていない感じというものはありえない、言い換えると、感じはありありとしているものであるから、そのなんらかの感じは、唯一のありありとしているものである私1以外のものには含有されえない。よって、私1を見出したのは、私1でしかありえない。
第2章 「私」が「ありありとしている」ことについて
前章では、「バイデンが私であり、かつ、トランプが私であったら」という思考を手掛かりに、仮想的な事態についての思考において用いられる「私1」という語について考えた。本章では、「私」の語を用いた思考について思考するのでなく、「私」という語を、必ずしもそれが何であるかを考えずに自由に用いて、「たんに」思考することを試みる。
2-1 私はありありとしている。
私はありありとしている。これは事実である。デカルトの方法的懐疑を真似てみると、私は、「私は、実は、ありありとしていないのではないか」と疑うことはできるが、「私は、実は、ありありとしていないのではないか」と疑っているのは私ではないのではないか、と疑うことはできない。よって、確実に、私は存在する。
上において、「私は、実は、ありありとしていないのではないか」と疑っているのは私ではないのではないかと疑うことができない理由を探ると、「私は、実は、ありありとしていないのではないか」という疑いが、ありありとしているからであるとわかり、さらに、なぜ、疑いがありありとしているということが、その疑いを私が含有しているとしか考えられない理由となるのかを考えると、ありありとしているものは私であるとしか考えられないということに行きつく。
また、私が確実に存在するということから、ここでの「私」の語は、「「私」と言う者」を意味する指標詞や、一般名詞ではなく、固有名詞でなければならないことがわかる。なぜなら、「私は存在する」ということが確実であるためには、それが真であることが確かであるということもさることながら、「私は存在する」という命題の内容が確かに定まっていなければならないが、「私」の語が一般名詞である場合、「存在する」と言われている「私」が「私」に該当するもののうちのどのものであるかが定まらないし、「私」の語が「「私」と言う者」を意味する指標詞である場合は、「私は存在する」と言う者がどの者であるかが定まらない限り、「私」にあたる者が定まらず、いずれの場合も、「私は存在する」という命題の内容は定まらないからである。
ここまで用いてきた「私」の語を「私0」とおいて、ここまでの思考をまとめると、次のようになる。
「ありありとしているものは私0であるとしか考えられない」ということの1つの解釈は、「ありありとしているものであるということは、私0であるということである」というものである。これには難点がある。それは、この解釈のもとでは、「私0はありありとしている」は同語反復となり、したがって、私0は、私0をなんの特徴もなしに見出し、しかも、それを指す「私0」という名を、たまたま知っていて、それを用いてその見出したものを思考において指したことになるということである。
上の難点を避けるために、「ありありとしているものは私0であるとしか考えられない」ということを、1-2と同様に、「ありありとしているものは、私0であるのでなければならない」と解釈する。すると、1-2と同様の議論で、次が得られる。
上の命題は、「私0」と「私1」の概念としての一致を述べたものではなく、私0が私1に該当するということを述べたものである。したがって、「私0」という固有名詞は、「私1」という固有名詞とは異なるということが、この段階では考えうる。
仮に、「私0」と「私1」とが概念として同じものであると考えると、「ありありとしているものであるということは、私0であるということである」と考えた場合の難点は生じないが、別の不都合が生じる。まず、「私0(=私1)はありありとしている」という命題は、「私1」という概念についての分析的な命題になってしまう。次に、「私0(=私1)は存在する」という命題は、どの生き者が私1であるかということ、言い換えると、現実世界がどのようであるかということに、その内容が依存してしまい、現実世界でないものから現実世界を描き分ける働きは持たなくなる。仮に、「私0」が、「私1」とは異なる固有名詞であって、現実世界がどのようであるかに依存せずにある個物を指すなら、「私0はありありとしている」という命題は、「私0はありありとしていない」が成立している仮想世界から現実世界を描き分ける働きを持つことになるが、「私0」と「私1」とが概念として同一であれば、このような働きはなくなるのである。
上の不都合を回避するために、「私0」は、現実がどうなっているかに依らずにある個物を指す固有名詞であると、仮に考えてみる。私0は、私0がudon(好きな文字列を代入してください)であると考えているが、私0は、私0がudonであると勘違いしている別の人物であるかもしれない。よって、私0は、udonであるかもしれないし、udonでないかもしれない。さらに、私0はありありとしているから、私0は、「udonはありありとしているかもしれないし、udonでないものがありありとしているかもしれない」と考えていることになる。ところで、私1はただ1つであるから、私1は、udonであるかudonでないかのいずれかである。よって、私0は、「私1でないものがありありとしているかもしれない」と考えていることになる。しかし、私1は「他のありありとしているものがあってはならないありありとしているもの」であるから、私0が、「私1でないものがありありとしているかもしれない」と考えることはあってはならない。よって、私0は、「私0はudonであるかもしれないし、udonでないかもしれない」と考えることがあってはならない。
上の段落において、「私0」は、現実がどのようであるかに依らずにある個物を指す固有名詞であると考えると、私0は、「私0はudonであるかもしれないし、udonでないかもしれない」と考えることがあってはならないことになることが示されたが、私0がどのものであるかについて私0が確信を持てないことがあってはならないというのは、不合理である(ばかみたいである、absurd)。したがって、「私0」は「私1」と同一の固有名詞であると考えざるをえない。
ここで少し食い下がって、「それぞれのありありとしているものは、それぞれにとってのみありありとしている」と考えることにより、「ありありとしているものは私0であるとしか考えられない」との考えを、保留にしてみる。すると、「私0」は「私1」と概念として必ずしも一致しないことになる。このとき、私0は、「私0は、私0にとってありありとしている」と考えることになるが、私0が、「私0はudonであるかもしれないし、udonでないかもしれない」と考えると、私0はudonであるかudonでないかのどちらかであるから、私0は、「私0でないものは、私0にとってありありとしているかもしれない」と考えていることになるから、私0は、「私0はudonであるかもしれないし、udonでないかもしれない」と考えることがあってはならないということになる。そして、これは、結局のところ、不合理である。
以上から、「私0」は「私1」と同一の固有名詞であると考えざるをえないことが示された。このとき、「私1はudonであるかもしれないし、udonでないかもしれない」と考えることは、「私1でないものはありありとしているかもしれない」と考えることを意味しない。なぜなら、「私1はありありとしている」という命題は分析的に真であって、事実をあらわすものではないから、「私1はudonであるかもしれないし、udonでないかもしれない」と考えても、「udonはありありとしているかもしれないし、udonはありありとしていないかもしれない」と考えていることにはならず、たんに、「私1はudonを指すかもしれないし、udonを指さないかもしれない」と考えていることになるからである。
本節の結果をまとめると、次のようになる。
2-2 今についての補足
「今」という語を用いて自由に考えると、今は生々しく、今は存在し、今は固有名詞であり、生々しいものは今であるとしか考えられない。ただし、生々しいものは今であるとしか考えられないのは、今でない時点は、過去か未来であり、過去や未来は生々しいとは考えられないからである。よって、ここで用いられた「今」の語を「今0」とおくと、次が得られる。
「今0は2023年であるかもしれないし、そうでないかもしれない」と考えることで、「今0」は「今1」と同一の概念であると考えるより他ないことが示される。まとめると、次のようになる。
第3章 ウィトゲンシュタインの「「私」の主体としての用法」についての議論を手掛かりに、「ありありとしているもの」の下位概念を巷に流通する言葉の中に見出す
前章までで、「バイデンが私であったなら」という思考における「私」の語も、「私は存在する」という思考における「私」の語も、どちらも「私1」、すなわち、「他のありありとしているものがあってはならないありありとしているもの」という概念であることが明らかとなった。本章では、私1が、どのような語によって記述されるかを、ウィトゲンシュタインの「「私」の主体としての用法」についての議論を手掛かりに、検討する。
ウィトゲンシュタインは、『青色本(The Blue Book)』において、「私」という語の「主体としての用法」と「客体としての用法」の区別を、以下のように導入した。
主体として用いられた「私」の語を「私S」、客体として用いられた「私」の語を「私O」と書くことにすると、上の例において、「私O」は「私1の体(*)」に置き換えられるとわかる。本章では、私Sについてのみ考えることにする。
* 『私・今・神という「名」』では、第4部第1章において、「私の体」とは、「私が動かしうる他の体があってはならない私が動かしうる体」であると論じた。
ウィトゲンシュタインは、「「私は歯が痛い」と言う場合には、ある人物を識別するという問題は存在しない」と述べているが、これを一般化すると、「「私S」を主語とすることで有意味な文を作るような任意の述語Pについて、「私SはP」と言う場合には、ある人物を識別するという問題は存在しない」となる。ここで、「私S」を主語とすることで有意味な文を作る述語の例は、(「私Sは歯が痛い」は有意味であるから)「歯が痛い」であり、「私S」を主語とすることで有意味な文を作らない述語の例は、(「私Sは六インチ背が伸びた」は有意味でないから)「六インチ背が伸びた」である。
上の一般化された主張を検討する。述語Pに対し、「xはP」が有意味な命題となるような「もの」xの集合を、Sub(P)とおく。Sub(P)は、「もの」の集合であって、語の集合ではない。Pを、「私S」を主語とすることで有意味な文を作る述語とすると、私SはSub(P)に属し、「「私SはP」と言う場合には、ある人物を識別するという問題は存在しない」ということになる。「識別するという問題は存在しない」とは、「識別することに意味がない」、あるいは、「識別することが判断の正しさに影響を及ぼさない」ということであり、これを解釈すると、「Sub(P)に属するものは私Sのみであり、主語にあたるものがどのものであるかということを考えることに意味がない」ということになる。
上の解釈のもとで、一般化されたウィトゲンシュタインの主張を書き直すと、次のようになる。
ここで、「ありありとしているもの」の下位概念、すなわち、「ありありとしているもの」を類としたときの種について考える。私1は存在し、それゆえ、私1の他にありありとしているものは存在しないから、次が成立する。
さらに、「私1はCである」ということは、ありありとしているものは私1のみであるから、「私1はCを含有する」ということと同じこととなる。よって次が得られる。
命題1と命題2を見比べることで、次のように考えることができる。
上の後半は、「私S」を主語とすることで有意味な文を作るような述語の多くについて、妥当すると考えられる。例えば、「これこれが見える」という述語は、「私S」を主語とすることで有意味な文を作るような述語であるが、この述語は、「視界」という「ありありとしているもの」の下位概念であると考えられる概念を用いて、「これこれを含む視界を含有する」とあらわされ、したがって、これを意味的に内包する。また、「これこれと言う」という述語は、「私S」を主語とすることで有意味な文を作るような述語であるが、この述語は、「これこれと言おうとする意志を含有する」ということを意味的に内包するが、「意志」は、「ありありとしているもの」の下位概念であると考えられる。
以上で、ウィトゲンシュタインの洞察が、「「私S」を主語とすることで有意味な文を作るような任意の述語Pについて、「ありありとしているもの」の何らかの下位概念cが存在して、Pは、「Cを含有する」ということを、意味的に内包する」ということだと解釈できることが明らかとなった。仮にウィトゲンシュタインの洞察がただしければ、主体として用いられた「私」の語を主語とする有意味な文を見つけることによって、巷に流通する言葉の中から「ありありとしているもの」の下位概念を探し出すことができることになる。本論文では、この洞察を受け入れることにする。
上の解釈は、『青色本』における、ウィトゲンシュタインが考える独我論者の主張と整合する。ウィトゲンシュタインは、自身の体験だけが実在すると主張する独我論者について、次のように述べている。
この独我論者の主張は、「あるひとつの体験だけがリアルであり、リアルでない体験というものは考えられない」というものである。さらに、「リアルでない体験というものは考えられない」ということを、「体験とは、リアルなもののことである」と解釈し直すと、独我論者の主張は、「リアルなものがただ1つだけ存在する」とまとめられる。
また、ウィトゲンシュタインは、独我論について次のように述べている。
括弧内は、「見られている」ということと「実際に(リアリー)見られている」ということを同一視していることから、「視界はリアルである」という主張と解釈でき、鍵括弧全体は、「視界を含有するのは必ず私である」と解釈できる。先ほどの引用個所とあわせて、ウィトゲンシュタインが考える「独我論の最も納得のいく表現」を再構成すると、次のようになる。
主体として用いられた「私」の語を主語とする文を言うとき、「ある人物を識別するという問題は存在しない」という主張は、明らかに、「視界」を「リアルなもの(ありありとしているもの)」の下位概念一般に置き換えることによって、上の「独我論の最も納得のいく表現」を一般化したものであるとわかる。しかし、主体として用いられた「私」の語と、ただ1つだけ存在するリアルなもの(ありありとしているもの)である「私」との関係は明らかにされなかったため、一般化された主張が指し示したのは、主体として用いられた「私」の語を主語とすることで有意味な文を作るような述語と、「リアルなもの(ありありとしているもの)」の下位概念の類似性と、そのような類似性を通じてのみ、何らかの概念が「リアルなもの(ありありとしているもの)」の下位概念であるということが直観されうるということであった。
最後に、「生々しいもの」の下位概念について少し考える。現在形の文で書かれた出来事は、今の出来事であるから、生々しくないということが考えられない。よって、「現在形の文で書かれた出来事」は、すべて、「生々しいもの」の下位概念である。また、今1は存在し、今1の他に生々しいものは存在しないから、現在形の文で書かれた出来事を含有するのは必ず今1である。
第4章 他者が私である世界と、心のはたらき
前章で、主体として用いられた「私」の語(「私S」)を主語とすることで有意味な文を作るような述語P(これを「私Sを記述する述語」とおく)は、Cを「ありありとしているもの」の何らかの下位概念として、「Cを含有する」ということを意味的に内包することが示された。このことと、私1は存在し、ありありとしているものは私1の他に存在しないことから、私Sを記述する述語により記述されうるものは、私1のみであることがわかる。本章では、私Sを記述する述語を用いて、私1でない生き者(本論文では、これを「他者」と呼んでいる)を記述する方法を検討する。
4-1 私でないものが私である仮想世界
私Sを記述する述語は、「見える」、「聞こえる」、「意志する」、「思う」、「歯が痛い」、「言う」など、精神状態や精神活動を記述するとされる述語と一致するように思われるが、前章で、私Sを記述する述語が、私1というただ1つのものを記述する語であることが明らかとなった。これに従うと、私1でない生き者が何らかの精神状態にあるということや、何らかの精神活動をするということは、考えられないということになる。そこで、私1でない生き者を、私Sを記述する述語を用いて記述する何らか方法があるかどうかを検討する。
Aを、私1でない生き者とし、Pを、私Sを記述する述語とする。仮に、Aがありありとしていれば、「AはP」は有意味な命題となる。よって、次の命題は有意味である。
ここで、Pとして、「「私1はAである」と言っている」という述語を考える。「文Sを言う」ということは、「文Sを、世界に対して、「描く」という関係に置く」ということである。よって、「Aがありありとしている仮想世界において、Aは「私1はAである」と言っている」ということは、「Aがありありとしている仮想世界において、Aは、「私1はAである」という文を、世界に対して「描く」という関係に置いている」ということであると解釈され、したがって、Aの発言は、「Aがありありとしている仮想世界」との関係で真又は偽となると考えられる。Aがありありとしている仮想世界は、ありありとしているものが複数あるという事態を排除しないが、そのような事態においては、私1は存在せず、発言の内容は理解不能となってしまう。そこで、次の文を考える。
Pが「「私1はAである」と言っている」という述語である場合、上は、「Aが私1である仮想世界において、Aは「私1はAである」と言っている」となり、Aの発言は「Aが私1である仮想世界」に対して「描く」という関係に置かれているということになる。「Aが私1である仮想世界」においては、私1が存在し、それはAであるから、この発言は理解可能であり、発言がなされた世界において真である。そこで、私Sを記述する述語Pを用いて私1でない生き者Aを記述する際は、「Aが私1である仮想世界において、AはP」のように記述することにする。また、これを「AはP」と略記することにする。
以下では、現実世界及び仮想世界にはそれぞれ必ず私1が存在すると考えることし、各世界における「しょっぱさ」について考える。「しょっぱさ」は、「ありありとしているもの」の下位概念である。私1がしょっぱさであるような世界においては、「しょっぱさ」は、「みかん」などと同じく「実在する(現実世界に存在する)(*)」ものをあらわす名詞となるが、私1がしょっぱさでないような世界においては、私1はただ1つのありありとしているものであるため、「しょっぱさ」は、「ペガサス」などと同じく実在しないものをあらわす名詞となる。何らかのものがペガサスであるための基準(「ペガサスは翼を持つ馬である」など)が仮にあったとしても、「ペガサス」という名詞が実在しないものをあらわす名詞であるせいで、その基準によって実在するものの中からペガサスを探し当てることはできないように、何らかのものがしょっぱさであるための基準(「しょっぱさは塩をなめているときに感じる味である」など)が仮にあったとしても、「しょっぱさ」が実在しないものをあらわす名詞であれば、その基準によって実在するものの中からしょっぱさを探し当てることはできない。したがって、実在するものの中からその基準を用いてしょっぱさを探し当てることができるためには、「しょっぱさ」が実在するものをあらわす名詞でなければならず、そのためには、私1はしょっぱさであるのでなければならない。よって、私1は何らかのものがしょっぱさであるための基準を満たしているためにしょっぱさである、ということはありえず、私1がしょっぱさである場合は、私1は、いきなり、なんの根拠もなく、しょっぱさである、ということになる(**, ***)。また、私1がしょっぱさでない世界において、私1でない生き者Aが、しょっぱさを含有し、塩をなめながら、「しょっぱさは、塩をなめたときに感じる味である」と言うとき、Aの証言は、実在しないものであるペガサスが実在する仮想世界における「ペガサスは翼を持つ馬である」との証言と同じように、実在しないものである「しょっぱさ」が実在する仮想世界での「しょっぱさ」についての証言となる。ペガサスは実在しないとはいえ、ペガサスが実在する仮想世界におけるペガサスについての証言が「ペガサス」という名詞についての知識をもたらすように、Aの「しょっぱさ」についての証言は、「しょっぱさ」という名詞についての知識をもたらし、「しょっぱさ」とは何かの探求を可能とする。
* この段落においては、「実在する」という概念を、「「実在する」という言葉が「描く」という関係に置かれた世界を現実世界と見做したときに「現実世界に存在する」」という意味で用いている。ちなみに、私1が言う「実在する」が何を意味するかといえば、私1は現実世界に存在するのだから、「現実世界に存在する」を意味する。
** この事態は、「もしペガサスが実在するならそれだけがペガサスであるような馬」がいるという事態と類比的である。「ペガサス」が実在するものをあらわす名詞なら、その馬は、翼を持とうが持つまいが、「翼を持つ馬である」という基準を適用するまでもなく、ペガサスであるということになり、「ペガサス」が実在しないものをあらわす名詞なら、その馬は、翼を持とうが持つまいが、ペガサスでないということになる。また、この事態から、「しょっぱさ」というものの認識が無根拠に行われるということも帰結するが、このことは、「各人は、自らの心しか見ることしかできないのだから、ある人が「しょっぱさ」であると思ったものは、他の誰が何と言おうと「しょっぱさ」である」ということとは無関係であるし、「人は、脳の異常により、口に何も含んでいなくともしょっぱさを感じることがある」ということとも無関係である。
*** 本段落のここまでの議論は、谷口一平の論文『ゾンビに語りうることと、A 変容』( https://drive.google.com/file/d/1ytpwYPcc05gO0JpnaMwrRVGV4QfXwOcq/view )における、〈A変容言語〉についての議論に対するアンサーである。また、本論文は、全体として谷口の論文へのアンサーになっているものと思われる。例えば、「私1」を「他のありありとしているものがあってはならないありありとしているもの」と定義するということは、谷口の論文における、次の提案に応えているように見える。 「ここで永井哲学が、〈私〉の存在についての「一方向性」という堡塁を死守しようとするなら、どうすればよいか。それは〈現実性〉に、ある特殊な意味での “内包” を認めることによって——つまりアクトゥアリテートは本当は無内包ではなく、〈A変容言語〉の中での第二次判断の対象である “一方向的な実質たち” によって充ち満ちている、そしてそれが語りえず示されもせぬ、ということを、むしろ明示的に語り示すことによって——「一方向性」を〈実質〉の側から担保しよう、とする試みしか、ありえないのではないか。 (同論文、23頁。傍点原文。)」
「しょっぱさ」についての上の議論は、「ありありとしているもの」の下位概念の多くにあてはまるが(「りんごを含む視界」など)、すべてにはあてはまらない。まず、「私1」は、「しょっぱさ」とちがって、それが存在しない世界が(ここでの問題設定から)考えられない。よって、「私1」は、あらゆる世界において、実在するものをあらわす名詞となる。「私1」は「ありありとしているもの」であるから、「ありありとしているもの」もまた、あらゆる世界において実在するものをあらわす名詞となる。さらに、「思い」も「ありありとしているもの」の下位概念であり、私1が「思い」でない世界においては、「思い」は実在しないものをあらわす名詞となるが、そのことが言われるためには、私1がそのように思う必要があるため、「思い」は実在しないものをあらわす名詞であるということが表立って言われるということはありえない。また、(視覚、聴覚、味覚などの)感覚、認識、意志などの、精神の能力と見做されるものは、(「能力」としては欠いているという事情の有無にかかわらず)内容が無いということはあっても、無いということはないと見做されるので、あらゆる世界において、実在するものをあらわす名詞となる。この観点から「しょっぱさ」について再び考えると、「しょっぱさ」は「味覚」の下位概念であるから、「しょっぱさ」が実在するものをあらわす名詞であるか実在しないものをあらわす名詞であるかが問題となる前に、「味覚」がそもそも実在するものをあらわす名詞であるか実在しないものをあらわす名詞であるかが問題となるはずであるが、「味覚」は実在するものをあらわす名詞であるので、そのようなことが問題となることはない、ということがわかる。
「今1」についても、「私1」と同様に考える。「現在形の文で書かれた出来事」は「生々しいもの」の下位概念であるから、Eを現在形の文で書かれた出来事(例えば、「日は昇る」)として、「Eは、今1である」(「日が昇るのは、今1である」)のように今1を記述することができる。他方で、今1は存在し、今1の他に生々しいものは存在しないことから、今1以外の時点は、現在形の文で書かれた出来事によっては記述できないということになる。そこで、Pを今1より前の時点(これを「過去」と呼ぶことにする)、Fを今1より後の時点(これを「未来」と呼ぶことにする)として、「Pが今1である仮想世界において、EはPである」、「Fが今1である仮想世界において、EはFである」という命題を考えると、これらの命題は、それぞれPとFをEによって記述する有意味な命題となる。そこで、これらの命題を、それぞれ、「Eだったのは、Pである」、「これからEとなるのは、Fである」と書くことにする。ただし、「Eだった」とは、Eを過去形に変換した文であり、「これからEとなる」とは、Eを未来形に変換した文であり、Eが「日は昇る」である場合、それぞれは、「日が昇った」、「これから日が昇る」となる。さらに、「Eだったのは、Pである」、「これからEとなるのは、Fである」を、「Pにおいて、Eだった」、「Fにおいて、これからEとなる」と書くことにし、これにあわせて、「Eは、今1である」を「今1において、E」と書くことにする。
4-2 「私」を「心」で覆い隠す
Aを私1でない生き者、Pを、私Sを記述する述語とする。「Aが私1である仮想世界において、AはP」という命題は、仮想世界を描いた命題である。したがって、「xはP」を満たす私1でないxを現実世界で見出すことはできないということになり、例えば、「歯が痛い人」や「しゃべっている人(何々と言っている人)」を現実世界で見つけることはできないということになる。そこで、「Aが私1である仮想世界において、AはP」という命題を、現実世界を描く命題と見做す解釈が必要であり、これをするには、上の命題を「Aが私1である仮想世界におけるAはP」と書き換え、さらに、「Aが私1である仮想世界におけるA」という仮想世界に存在する生き者を、現実世界に存在するAと同一視すればよい。このような解釈のもとで、「Aが私1である仮想世界において、AはP」という命題を、たんに「AはP」と表記することにする。このとき、Pを「歯が痛い」という述語とすると、「AはP」という命題を、「Aは歯痛を含有する」ということであると解釈することはもはやできず、この命題は、Aが何らかの状態(ここでは、「脳のxxxxという部位の神経の発火」とする)にあるということあらわすと解釈されることになる。
Aを私1でない生き者とする。「Aは「私はAである」と言っている」という命題が現実世界を描いていると考えるなら、Aによる発言は、現実世界においてなされることになり、したがって、現実世界に対して「描く」という関係に置かれることになる。Aは私1ではないので、Aが言う「私」の語を「私1」と解釈することはできず、この発言における「私」は、「「私」と言う者」を意味する指標詞としての「私」と解釈されることとなる。すると、この発言は、「AはAである」という内容を持つことになり、現実世界をただしく描いていることになる。
「Aが私1である可能世界におけるA」をAと同一視し、Aが言う「私」を指標詞としての「私」と解釈することによって、私Sを記述する述語を用いてAを記述する際に、「私1」という語を用いる必要はなくなった。そこで、以下では、「私1」という語なしに世界を記述することができるかどうか考える。
「Aは「私は歯が痛い」と言っている」という命題が真であるとき、この発言は、「Aの脳のxxxxという部位の神経が発火している」という内容を持つことになる。そして、Aは、Aでない生き者の脳をAの脳であると誤って認識することがありうるのであるから、「私は歯が痛い」という命題における「私」は、「私O」、すなわち、客体として用いられた「私」であるということになる。しかし、「私は歯が痛い」という命題における「私」は、「私S」であるはずである。そこで、このような矛盾を回避するために、「心」という語を導入し、以下のように考えることにする。
すべての生き者は、それぞれ1つずつ「心」というものを持っていて、それぞれの生き者は自らの心を見ることができ、他の生き者の心を見ることはできない。それぞれの生き者の心は、それぞれの生き者の状態をあらわす。「私S」が、「「私」と言っている者の心」を意味する指標詞であると考えると、AはAの心しか見ることができないのだから、AはAが言う「私S」をAでない生き者の心と取り違えることはない、ということになる。よって、「Aは「私は歯が痛い」と言っている」という命題において、Aの発言は、「Aの心は歯が痛い」、すなわち、「Aの心は歯痛を含有する」という内容を持ち、これは、「Aの脳のxxxxという部位の神経が発火している」ということをあらわすことになる。他方、「私O」は、「「私」と言っている者」を意味する指標詞であり、「Aは「私は六インチ背が伸びた」と言っている」という命題において、Aの発言における「私」の語は「私O」であるから、Aの発言は、「Aは六インチ背が伸びた」を意味し、Aは、六インチ背が伸びたAでない生き者をAと取り違えて、誤ってそのように判断しうることになる。
以上で、「私1」という語を用いることなく私Sを記述する述語を用いて世界を記述することが、「心」というものを導入することによって可能となることが示された。ただし、私1は、私1に対して、「私1は存在する」ということを伝達することはできなくなった。
最後に、本節におけるここまでの議論と同様の議論を、「今1」についても展開することを試みる。「今1から1時間前にこの駐輪場にあった自転車」や「今1から1時間後にこの駐輪場にある自転車」を現実世界で見出すことが可能となるためには、Bを自転車として、「今1から1時間前において、Bはこの駐輪場にあった」や「今1から1時間後において、これからBがこの駐輪場にある」といった命題が、現実世界を描いているのでなければならず、そのためには、Pを今1でない時点として、「Pが今1である仮想世界」をPと同一視し、Pが現実世界に存在すると考えればよい。Pにおいて言われる「今1」の語は、Pに対して「描く」という関係に置かれているので、Pを指す。このように、「Aが私1である仮想世界におけるA」をAと同一視することに伴って生じた、私1でないAが言う「私」の語を「私1」と解釈できないという問題に相当する問題は、「今1」については生じないため、「今1」に代わる語を編み出す必要はない。
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