探究者のための学校づくり前夜 #2
私の問題意識の矛先が「学校教育」に向いたのは、おそらく私自身の学校体験に起因するでしょう。
私が通った中高一貫進学校は典型的な管理教育体制を敷きつつ、中学は高校の準備機関化、高校は大学受験予備校化しており、それを相対化して見られる生徒の間にはシニカルな空気が漂い、波風立てずやり過ごして受験に専念するのが賢明という雰囲気が充満していました。
学生時代にこのような”思い出”を抱える人は少なくないと思いますが、最終的に私が教育の世界に足を踏み入れざるを得なかったのは、私が高校生で、「学校」というものにすっかり辟易していた頃に出会った恩師・松永暢史の影響が大きいと思います。
松永はプロ家庭教師兼教育環境設定コンサルタントを名乗り、子どもが受験産業にスポイルされずに受験をパスすることを支援していました。その松永の初めての書籍を母親が見つけてきて、出版社経由で連絡を取り、気がつけば月に数回通うことになっていました。
通ってみると彼は、表向きはテクニカルな受験指導者でありながら、実はリベラルアーツの重要性を説く在野の哲学者でもありました。頭が良いとはどういうことか、自由に生きるとはどういうことか、岩波文庫を叩きつけながら語る姿に強く感化されました。
「学校教育」への問題意識が再び芽生えた時に松永のことを思い出すのは必然で、数年ぶりに彼の元を訪れました。
今や数十万部のベストセラーを持つ売れっ子となり、悩みを抱えた親子がひっきりなしに相談に訪れます。相談の内容は、「受験で燃え尽きて勉強しなくなった」とか、「塾に通い始めてから急に元気がなくなった」等に加え、「学校がつまらないから行かないと言って困っている」という相談が多くなっているようでした。
訪れた経緯を話したところ、彼の指導の手伝いや、仲間の塾での指導も始められることになりました。
こうして幸いにも、受験指導とは言え小学生から高校生までの世代に関わることができるようになったのですが、そこで痛感したのは、自分が知っている15年前の学校と今のそれの有り様がほとんど変わっていないこと。そして、子どもたちから感じる抑圧とストレスでした。
学校は必ずしも社会、特に経済界の要請に応えるべきとは思っていませんが、それでも育てようとしているものと、社会で自由かつ幸福に生きる上で重要なもの(と推測されるもの)の乖離が大きければ、子どもたちの間に懐疑と不信感が生まれるのは仕方のないことです。さらにそれを権力や戒律、テストの点数比較と内申点でもって操ろうとすれば、子どもたちのストレスは高まるばかりです。
松永やその仲間達がしていることはもちろん重要であるとわかりつつも、もう少し包括的に子どもと関わりたいと考えるようになりました。
その頃、最初に勤めた会社の縁で「design311」という東日本大震災復興支援活動のウェブサイトに携わりました。そのプロジェクトのディレクターに私の教育への関心を話したところ、「驚くべき学びの世界 レッジョ・エミリアの幼児教育」という書籍を紹介されます。そこに書かれている「はじめに子どもありき」のアプローチに衝撃を受け、同時に「どうやら私の知っている『教育』はすべての教育では無いらしい」ということを知り、「日本の学校教育」の外側に目を向けることになるのです。(つづく)