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矢野宏の平和学習 03「空襲被害を大きくしたもの その2」

空襲被害を大きくしたものとして、B29爆撃機と焼夷弾を取り上げた。今回は引き続き、空襲被害について体験者が遺した言葉から振り返ってみたい。
これまで延べ200人から空襲体験を聞いてきたが、忘れられない人がいる。2012年に73歳で亡くなられた谷口佳津枝さんもその一人だ。
谷口さんは大阪市南区(現在の中央区)の高津で母親と兄、姉2人の5人で暮らしていた。2歳の時に父親を亡くし、母親が家業の印刷所を切り盛りしていたが、印刷機を供出されられて仕事を失う。女手一つで4人の子どもを育てていた谷口さんの母親が遺した最後の言葉を、谷口さんは覚えていたのだ。
1945年3月13日深夜からの第1次大阪大空襲。谷口さんは当時7歳、国民学校1年生だった。母はこう言ったという。「きょうは大きい空襲が来るらしいわ。あんたはお姉ちゃんとお逃げ。おかあちゃん、家守らなあかんねん」
谷口さんは、家に残った母親に見送られ、姉と一緒に天王寺区の味原国民学校へ避難した。翌日、東区(現中央区)にある大江国民学校へ移動させられ、1週間過ごした。迎えに来てくれたのは母ではなく、母親の姉だった。その伯母はこうつぶやいた。「お母ちゃんが迎えに来ないところをみると、死んでいるのかもしれん……」
自宅は全焼していた。近くの学校を訪ねると、母と兄の遺体が並べられていた。防空壕で窒息死した後、炎に包まれたのだろう。母の顔は黒く焼けていた。谷口さんは恐怖のあまり、ガクガクと震えたという。
なぜ、谷口さんの母親は一緒に逃げなかったのか。
1941年11月に「防空法」が改正され、逃げることが禁じられていたのだ。違反者には、1年以下の罰金、または500円以下の罰金が科せられていた。当時の小学校教諭の初任給が55円という時代に、だ。
だから、当時の政府は「威力なき焼夷弾」と報道させ、「消せば消える焼夷弾」などのポスターを街中に張った。「時局防空必携」を各家に配り、「大都市では昼間なら1回20,30機、夜なら10機くらいの空襲を受けるものと思えばよい」とか、「弾はめったに目的物にはあたらない。爆弾、焼夷弾にあたって死傷する者は極めて少ない」と教えていた。
極めつけは、東京大空襲を伝える大本営発表だ。一夜にして10万人が亡くなっている。
「本本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり」
宮内省主馬寮とは昭和天皇の馬小屋のことで、10万人の命が「その他」だった。
 つまり、空襲被害をおおきくしたものの三つ目は「政府のウソ」だと思う。
 戦後、孤児になった谷口さんは広島県の親戚にあずけられた。高校進学をあきらめ、中学を卒業すると働き始めた。


大阪市戦災地図第1次


大阪市戦災地図第2次


大阪市戦災地図第3次


大阪市戦災地図第4次


大阪市戦災地図第5~8次


大阪市戦災地図第6次

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