矢野宏の平和学習 02「空襲被害を大きくしたもの その1」
今回は、空襲被害を大きくしたものについて考えてみたい。
その一つが、当時、世界最大の長距離爆撃機「B29爆撃機」である。全長30メートル、全幅43メートルあり、「スーパーフォートレス=超空の要塞」と呼ばれた。
開発・製造したのはボーイング社だが、Bは爆撃機を意味する「ボマー」の頭文字だ。
B29の特徴は大きく分けて三つ。一つは、高度1万メートルの上空でも安定飛行ができたこと。二つ目は、航続距離が5230キロ。三つ目が積載量9トン。当時、日本最大の爆撃機「一式陸上攻撃機」の積載量が0・8トンだから10倍以上の爆弾を積むことができた。
B29による日本本土への初空襲は1944年6月16日。中国四川省の成都を出撃したB29の目標は日本最大の製鉄所・八幡製鉄所(現新日本製鉄)だった。成都から北九州までは2500キロ以上あり、往復距離は航続距離の5230キロ限界ギリギリだった。
この日、八幡上空に飛来したB29は47機。高度8000メートルから爆弾を投下し、八幡製鉄所の構内に落下したのはわずか5発。被害は八幡市街地や小倉、門司などの方が多く、270人を超える死者を出した。
そこで、アメリカ軍がB29を効果的に使うために行ったこととは何か。成都より近い日本本土空襲の航空基地を確保することだった。1944年6月15日、日本の統治領であるサイパン島に上陸を敢行した。
サイパン島を守る日本兵は4万人。対するアメリカ兵は9万人。圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に力尽き、7月7日にサイパン島は陥落した。
サイパンを落としたアメリカ軍は、隣のテニアン島、グアム島へと上陸を敢行し、日本軍の抵抗を退けて、日本空襲の航空基地確保に成功した。日本までの距離は2250㌔。往復が可能になり、以後の日本空襲はこの三島の基地から行われた。
次に、空襲大きくしたものの二つ目が「焼夷弾」である。
当時、日本は木造家屋がほとんどで、建物や人などを燃やし尽くす目的で開発された殺人兵器だ。一番多く使われたのが「M69油脂焼夷弾」。直径8センチ、長さ50センチ、重さ2・7キロの六角形の鉄の筒の中には、ゼリー状のガソリンが入っていた。
M69を上下19本ずつ二段に束ねた親爆弾が投下されると、高度1500メートルあたりで開き、ばらばらと落下した。屋根を突き破り、畳に刺さると、5秒後に火を吹いた。1000度、粘着性もあり、なかなか払いのけることができなかったという。
この焼夷弾を効果的に使うためにアメリカ軍がやったこと。それは「作戦変更」だった。当時、ハーグ陸戦協定で「軍事施設以外の攻撃は認めない」と決められていた。アメリカ軍は軍需工場だけを狙って攻撃する「精密爆撃」から焼夷弾による「無差別爆撃」に作戦を変更したのだ。