新しい生活様式と明治政府の神仏分離
三峯神社に行ってきた。
かれこれ、4回目の参拝であり、宿泊も二回目である。
今回一番驚いたことは、まず参拝者が格段に多いこと。
そして、次は、神社側が感染について大変、危機感を持って対応していること。
最後は、三峯神社もまた、神仏集合の修験場であったこと。
今回の「疫病」に関しては、
私は、飛んだ茶番もいい加減にしてほしいと思っている。
でも、例えば明治時代に神仏集合を分離するとか
大戦が終わった時に、天皇が人間宣言をするとか
日本という国は、本当に民の心の芯の部分に容赦なくメスを入れて、いろいろなことをひっくり返して(または返させることを許して)きたのだ。
神仏集合というのは、つまり、生と死が、ごった混ぜになっているのが、この世の営みであり、その中に八百万の神を存在させて、自分自身の中にあらゆる存在を統合させた状態で生きていき、そして、生の一部としての死を迎えていく、その全てに対してトータルで軸を与えていたのではないかと感じる。
神は、生きるための稲作を始めとする農耕を司る存在であり
仏は、魂の旅路を導くための存在である。
それを分離することで、日々の営みの中から、魂や、死、またはなぜ生きるのか、(つまり、死から見た、生の意味性)が徐々に曖昧になっていったのではないだろうか。
ただ、光だけを見つめていても、その光のまぶしさは、感じられないが
暗闇の中で、月の淡い光を見たとき、その美しさは、心に染みる。
神仏分離とは、神道という強烈な光だけを国の中心に据えることで
自動的に、仏が司る、潜在意識の部分、死後の世界、食を基軸にした肉体から離れたときの人間の意味性を曖昧にした。それは、根っこの生えていない植物と同じ状態である。
新しい生活様式、が、排除しようとしているのは、人間と人間の生々しいぶつかり合い、ふれあい、菌の交換による増強作用である。
それは、心と体、そして魂全てに影響を及ぼしていく。
人間を人間たらしめているのいは、文字通り、人との間にある関わりでしかない。その中から、新しいアイディアは生まれ、愛が生まれ、創造がなされていくが、ふれあいがないところには、「知らない」というところから出発して、たどり着くのは「恐怖」である。
あまりにも、「クリーン」な状態を求める、という点において
生活から「死」を排除し始めるきっかけになったであろう神仏分離と
潮流が続いているように感じる。
死のないところに、生は、ない。
菌のないところに、生き物はない。
その逆は必ず成り立っている。
死ということ、菌ということ、
これまでぼんやりと避けて、忌み嫌ってきたことがらを
なぜそのように避けて、忌み嫌うようになってきたのか、
歴史的、政治的な要因を含めて、自分の感性を自分だけのものとせずに
全体の中の一部として眺めてみる時に来ていると思う。
3分後に死んでもいいくらいの気持ちで、いつも、本気で生きているならば、何が起きても怖くないだろう。
それは、永遠に生きている、という状態に限りなく近づいていくし、結果的に、強い命、強い生き様へと自分を導いていく。
死は恐れることではなく
ただ、向かっていく先である
菌は、その旅路を豊かにしてくれる存在であり
自分自信の心身を健やかに育んでいる時、どんな菌でも、多様性の中で、全体として調和的な方向へ働いていくものである。
以上、今回の三峯神社参拝の記録。
相当、調べないと言い切れないことを述べています。
自分への、覚書。