安楽死、生きる権利。延命は誰のための行為か。
安楽死は「生きる権利」か、という問いがあれば、否だと思う。だが、「幸せに生きる権利」について考えた時、言い換えるなら、日本国憲法における人権として「幸福追求権」と重ねて「生きる権利」について考えた時、安楽死はそれ(「幸せに生きる権利」)を守るものとして認められ、自己決定(安楽死の選択)が許されると考える。
ここで言う、安楽死とは積極的安楽死や直接的安楽死とも言われるものであり、医学的に死に直結する(極端に寿命を縮める)とされる行為などによる安楽死である。
これは極端に寿命を縮めることになるが、寿命を迎えるまでの期間を幸せに生きようとする「幸福追求権」と「生きる権利」を同時に守り、その期間のQOLを高める行為である、と考える。
生まれた時から高水準の延命行為。
僕らは社会の発展により、生まれた時から高い水準での延命行為が行われることが一般的になっていると認識する。
医療技術や衛生環境、生活習慣・環境などは、かつての人類社会や現代の開発途上国などと比較すれば、高い水準にあり、それが寿命が延びた理由のひとつであることは、共通認識となっているのではないだろうか。
子どもの死亡率(世界)。
WHO(世界保健機関)によると、2020年に死亡した新生児(生後28日以内)は約240万人であり、5歳未満児では500万人と推定されており、そのほとんどは予防・治療可能な原因によるものだったという。
サハラ以南の5歳未満児死亡率(1000人当たり74人)は、欧州や北米の14倍になっている。
新生児死亡率だが、サハラ以南のアフリカが最も高く、1000人に27人が亡くなっている。また、世界の新生児死亡数の約半数近い43%を占めており、中央・南アジアを含めると、これらに属する国だけで約80%を占めることとなる。
生存率が高い日本の子どもたち。
厚労省によると、日本の乳児(1歳未満児)死亡率は2015年から1000人に2人以下となっており、新生児死亡率は2012年から1000人に1人以下となっている。
新生児死亡率が1000人に27人だったのは、1950年頃で、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終戦して間もない頃である。1967年から10人以下となり、1980年から5人以下、1987年から3人以下となっている。
僕らは生まれてからある程度安定して生存できる状態になるまで、延命行為が行われる。延命のための技術や環境整備は、人類の生きるための知恵であり、その程度によって生存率が増減する。
2つの寿命。平均寿命と健康寿命。
平均寿命とは「0歳における平均余命」のことであり、健康寿命とは、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」をいう。
健康寿命は、2000年にWHOが提唱した指標で、日本とWHOでは算出方法が異なるが、日本でも導入されている指標(「健康な期間」の平均値)である。
日本の健康寿命は、世界の平均寿命と同じ。
WHOが発表する平均寿命ランキング2022では、183か国が調査できた国となっているが、80歳を超える国が31か国(日本は84歳で1位)、70歳以上が90か国、60歳以上が55か国、それ以下が7か国(レソトが50歳で183位)であった。
2019年の日本の健康寿命は、男性72歳、女性75歳であるが、世界の平均寿命は約73歳となっており、日本の健康寿命とほぼ同じ数値となっている。
健康寿命と幸福度。
健康寿命は、世界幸福度レポート(World Happiness Report)で使用されている。幸福度を測るための要素の1つであり、幸福感を高めるものとして考えられていると認識する。
寿命は社会のあり方によって延びたり、短くなったりする。
寿命は公衆衛生などによって延ばすことが可能であり、その時々の社会情勢によっては高水準の延命行為をおこなえる環境整備ができなくなるなどの事情で、想定より短くなることも起こりうると考える。
言い換えれば、寿命は社会のあり方(どういう状況か)などによって伸縮するものである、ということ。
延命は誰のための行為か。
僕らは自然的に、延命行為を生命活動の1つとして行っている、と認識する。
身体や精神、その置かれた環境など、何かしらの理由で、延命を拒否したくなる状態になることがあるだろう。
その理由についてだが、自分自身の身体的に生じていることを理由とするのか、社会的なものを考慮した上で判断したことなのか、では意味合いが異なる。そして、拒否の理由がどちらに該当するのかなど、その線引きについては、社会通念に照らして判断すべきことになると考える。
安楽死制度が必要な理由。
延命を拒否したくなる状態とは、必ずしも死に直結するものではない。
様々な境遇が理由となって延命拒否したくなる状態になると思うが、自死などに直結する話になった時、安楽死を選択できる条件について話を重ねる中で、当事者が求めていることを共有でき、様々な選択肢を検討できる状態になるかもしれない。
人権尊重か、同調圧力か。
安楽死を選択する場合、それが幸せに生きるためのもの(人権尊重)なのか、同調圧力によるものなのかは、その行為を認めるかどうかの判断の分かれ目になるだろうと考える。
安楽死の自己決定権は、人権として尊重され認められるべきだと認識しているが、認められるための条件については、安楽死を望む人たちの声に耳を傾けながら、専門家の意見を踏まえつつ、国民全体で共有できる形で議論し、適切な基準を定める必要があるだろう。
安楽死は医療行為。まずは医療現場の声を。
僕は、安楽死を医療行為だと認識している。だが、それは医療従事者からの提案ではなく、患者からの要請でなければならない。
平成30年に改訂された「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」では、「生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死」は対象外として明記されている。
まずは、安楽死制度やそれに類する要望が患者からあった際に、現場の忙しさや同調圧力によって放置されることなく、その声を集約できる仕組みが必要となるだろう。
終わりに
90歳を超えた高齢患者がいて、その患者は入院後2か月で亡くなった。
この患者は、呼吸器疾患を患っていたものの、ALSやがんを患っていたわけではない。
亡くなる1か月前には、「死にたい」「助けてくれ」「早くあの世に行かせてくれ」などと頻繁に、時に涙を流しながら言っていた。
家族は本人の希望を尊重し、無理な延命はせず消極的安楽死のような要望を病院にしていた。
だが、患者はまだ腕の力も強いからなどの説明をして、食事を無理やり食べさせ、点滴を抜くリスクからミトンをはめられ、首絞めなど自傷行為のリスクからベッドに縛り付けるなどの対応がおこなれた。
その後、患者と家族は在宅医療・介護を希望し、そのためのチームが組まれ、入院2か月後に退院。そして、退院初日に、自宅にて息を引き取った。
患者は事実上の病院での安楽死(消極的安楽死も含む)を希望していたが、回復のため、身体的には食事も厳しい状況(患者主観)下で、精神的苦痛が続く入院生活を過ごした。
もし、安楽死制度があり、それがこの患者に認められていたなら、この患者は高いQOLを維持したまま寿命を迎えられたかもしれない。
安楽死制度は、当事者の生きる権利を尊重するものである。
厳しい条件が設けられ、実際に自己決定権が認められる件数はそう多くないかもしれない。
しかし、それによって守られる人権がある。
当事者や専門家の意見を踏まえながら、安楽死が認められる条件について検討する段階に、理解は進んでいると感じている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?