パームツリー
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鋪道をまっすぐに貫くパームツリー並木を追って行くと、そこは名も知らぬコンビニエンス・ストアの前だった。
彼は感情や事象や、それから絵図や解析を含んだ難解な文字が轟々と流れる紙の切れ端を頭に巻きつけるかのように、書物を開いた机の前に座ったまま頑として動かないでいた。
時にコーヒーを飲み、時にケーキを噛み締めながら文字の渦の中に溶けていきそうな海馬に鞭を打ち、自らのことをそれこそ海の中を駆ける馬だと勘違いしているかのような勇猛果敢さで紙の中の黒い米粒に向き合っていた。時計は午前3時45分を指して何故かチャイムを鳴らした。彼は深夜の長い沈黙から顔を上げた。
苦しみとも快楽ともつかない無我の時間を彷徨った彼はくたくただった。鼻の下に気持ちばかりの髭を生やした店主が叩くレジスターからは、檜の大木を電動ヤスリで撫でた時に出る削りカスのような、気の遠くなる長さのレシートが捻り出された。重苦しいベルをガランゴロンと鳴らしながら喫茶店を後にする。
今日1日の格闘から期待したような結果は得られなかった。見るも無惨な彼の後ろ姿だが、惨めで寂しい気分を抱えるような段階を、彼は超えてしまっていた。奮闘に対する褒賞も愉快さも悔しさも理不尽さも全て全て、今日の朝7時14分発の快速列車の前から3両目、白髪混じりの髪をべっとりと後ろに撫でつけた同僚男性を横目に見ながら座った席のちょうど真上の網棚に置いてきてしまった。
同僚男性は彼よりも一回り歳上、中年と言っても差し支えのない年齢であるため、刻み込まれた皺は彼のそれよりも遥かに深く、しかし確かな含蓄をもって年輪のようにはっきりとものを言っていた。圧倒的な結果を出し続ける同僚の休日の姿の抜かりなさに、彼の奮闘が所詮は自分の範疇に収まるものでしかないことを悟り、徹夜で書物に向き合った末に自分なりの収穫を得てフケの混じる髪を逆立たせたみっともない格好で自宅に帰ろうという彼の満足感をマッシュポテトのように形が無くなるまで押し潰してしまった。自堕落な生活と眠気が彼にそう感じさせたのかもしれないが、夕刻までの長い睡眠をもってしても、彼のその無力感は拭えなかった。
無力感を恋人への花束のように大事に抱えながら、彼は夜明け前の白い空気の中をよたよたと歩く。喫茶店のドアベルがいつまでもいつまでも空気を震わしている気がした。
パームツリーの並木は、狭い路地裏を抜けた片側4車線の広い国道沿いに我が物顔をして根を下ろしていた。彼は地平線まで続くその長距離歩行を、自宅に帰るためのどうしようもない重労働として受け入れていた。檜の大木を電動ヤスリで撫でた時に出る削りカスのような、気の遠くなる長さのレシートは許されるのに、ワンメーター分と少しばかりの金額を述べるだけであろうタクシー運転手の声は、彼には許されないのだ。
歩くうちに彼は、パームツリーたちを薄い光で縁取るコンビニエンス・ストアの姿を前方にみとめた。
※※※
(つづく?)
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