脱コントロール
コントロールしたいというのは、近代、自我の性(さが)。
ものごとには原因があって、結果がある、という線形モデルから、AならBで、ゆえにCとなる。であれば、CなのはBであり、つまりAをA'に変えればC’になる。みたいな。
しかし現実には、研究室を出てしまえば、そんなシンプルなことは少なくて、Aを変えれば、Fも変わり、それはBにも影響しているし、Aを変えようと思った時点でもうAはAでないし、結局、Wになっちゃう。
また、問題を解決しようとすることが、問題を生むことだってある。問題なんてないのに、解決しようとすることがそこに問題を作り出してしまう。心理的に病気になる、こともある。
そう、問題の原因は、私自身。あなた自身。犯人を指す指の中指は自分に向いている。
(コロナなんてたいしたことないかもなのに、騒ぎすぎて、経済も大変だ。社会から信頼が落ちる。それはグローバルなコントロールをさらに強めることになり、さらに医療依存が強まり、さらにウイルスに弱くなる結果になる。(もちろんそれがすべてダメじゃないが。ガバナンスも必要だが。)
問題はコロナでなくて、人間側の問題だとすると、人間の力を高めるために、何ができるか、コロナになっても大丈夫な心身コミュニティをどう作るかだ。>っていう自覚が必要。 続く)
ニュートンあたりの近代科学は法則性を見出し、そのころ蒸気機関とかも生まれ、コントロールは強化され、世界が産業化した。富が増えた!みんな豊かになった!
でも行き過ぎた。コントロール始めたころには思ってなかったシステム外のことがいろいろ出てきた(気候変動とか)
人間は、百姓から、サラリーマンになって、都市に出て、商品に囲まれて、生命力が落ち、自分で決めることができなくなって、自分は不足している と思うようになって、命のツナガリが弱くなって、要は依存が増えて、生命として弱くなった。
その中で、人生設計とか人生計画とかに乗せられるようになった。人生をコントロールするのだ。目標を決めて。上に登るのだ。
小さな競争に乗せられてる中で気がつけば、社会システムの中で歯車化、奴隷化している。主人になろうとすることも奴隷になってしまう。
でも気がつけば、抜けられる(意図してそこまで登ろうというのもある)。
コントロール(操作性)というアーキテクチャーというか世界観が、私の可能性を狭めているから。
お金に振り回されるのでなく、お金を振り回す側に回ろう というのもまた大きなシステムに巻き込まれる。
ある時点で、他力(コントロールを手放すこと。または、コントロールしたがる自我をあやすこと)をつかむと、そこから抜けられる。
私を手放し、お役目として使っていただく という のもある。これは結果としてはいいんじゃないかな。
(もっといい図があるはずだけれど・・・これは量子論的な)
コントロールでなくて、何なの? といえば、科学からいうと複雑系とか創発、エンジンというよりは生命システム、楽譜通りというよりはジャズインプロヴィゼイション、適度な自我チューニングと場づくりと遊びと協調共鳴。
人間は、サラリーマンからアートクリエイティブ百姓になって、地域に出て(かつグローバル間にも神経)、いのちに囲まれて、生命力が上がり、自分で決めることができるようになって、自分は満たされている と思うようになって、命のツナガリが強くなって、要は依存から自律分散共生が増えて、生命として、大きな生命としても 強く(レジリエンス)なった。神さまモード(^ ^)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?