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「幸せ」から始めよう。自分が自分であることを「のさり」として受け入れる。
自分が自分であることが受け入れがたい
自分が自分であることって、あたりまえだけれど、受け入れきれてないもの。
自分は恵まれてない。ついてない。不遇だ。不運だ。能力がない。・・・
どうしてこうなんだろう、どうしてああならないんだろう、どうして・・・
きりがないけれど、外からの評価軸、誰かと比較、自分なりの理想像 と比較して、今の自分を認めない、受け入れない、否定する、愛さない。
そうなれば自分は力づけられないので、さらに縮こまっていくしかない。
自分で自分の恵まれないループを加速してしまう。これもったいなさすぎる!
問題は「自分は自分でしかないこと」ではなくそれ「自分、自分に起こっていること、起こってくること」を「受け入れないこと」。
自分を評価することを手放すこと
「自分は自分でしかないことを受け入れられない」のは、「自分・自分に起こってくること」を他人軸で評価した結果、低くなってしまい、それが嫌だから。
それを手放すこと。
それ=
①他人軸で評価すること。
②評価そのもの。
③評価で左右される反応
①他人軸で評価すること。
自分はかけがえのない自分であって、軸は自分にしかない。世界の座標軸はこの自分が中心だ。自分優先。自分大好き。自分が一番。これがわがままとか利己主義とか批判されたり、罪悪感に結びつくけれど、自分1stからしか愛は生まれない。自分の評価軸は自分が一番。人がどうとかに振り回されず、自分が自分であることにかけては誰にも負けないので、マイモノサシで常に1番(^ ^)。そのうえで、自分を愛したうえで、否定せずに、自分ちゃん、一緒に高みを目指そうって楽しみながら目標とかギャップを作って成長をワクワクしつつ楽しむのはいいと思う。
②評価そのもの。
評価ってあくまで参考値としてとらえるならいいけれど、比べられるものなの?っていう面がある。~力 とかどうやってはかるのが一番いいんだろう。あるテストにおいてはそのテストに対する評価はわかるけれど、それが~力を図れるものなのだろうか? お金を持ってるかどうか、もってる方が本当にいいんだろうか?(最低限もっていたい にしても、「最低限」をどう決めるかだったりする。)。事故だったり、病気だったり、不倶だったり、障害だったり、いい悪い って誰かが決めていいものではない。し、いつの時点で評価するか、でも変わってくる。そんな簡単に白黒はつかない。人生万事塞翁が馬だったりする。
もっと本質的な所では、人生だけでは評価できない。一人の人生を超えた、生命全体としてどうか というところが本質で。そこには評価など、無い。ただ、それぞれが活かしてるか、生かしてるか、楽しんでるか、発揮してるか、しか 無い。自己否定してる場合ではない(笑)
③評価で左右される反応
評価は評価として、励み、克己として、成長、としてならいい、として。
それを受けて、一喜一憂する。
嫌だ、認めたくない、自己嫌悪、自己卑下、あきらめ、悲しみ、つらさ、不遇感、無力感、見離され感、、、いろんな感情が沸き起こる。
沸き起こるのはしょうがない。それが自然。それが心地よければそれでいい。心地悪ければ、それを否定するのでなく、それも授かりものとして、感じ切って抜けるのがいい。(NVCだとそれに名をつけて、ニーズ(認められたい、評価されたい、選ばれたい、祝福されたい、、、)を明確にしてあげる。それによって自分にギフトをあげると、感じ終わることで「自分に起こってくること」が必要なくなっていく)卒業しちゃうのがいい。
自分・自分に起こってくること
「自分」と「自分に起こってくること」は別物です。
「自分に起こってくること」は現象であって、過ぎ去っていくもの、移り変わっていくもの、存在しないもの。
「自分」は存在している。ん? でも、体も、思考も、感情も これまた移ろうもの。ただ、「存在」はしている。移ろいの中で、変わらぬ「自分」。
これを何だろう?と哲学的に探求するのも楽しいけれど、これを「神秘」として、味わい、愛で、祝福し、感嘆し、感謝するのはどうだろう。
のさり
天草周辺には「のさり」という言葉があります。
「自分の今ある全ての境遇は、天からの授かりものである。」という考え方と言われています。
この言葉自体が授かりものだと思うんですが、雨も雪も寒さも暑さも、水俣病も、凶作も、天草・島原の乱も、コロナも、緊急事態宣言も、授かりものとして受け入れて、あきらめではなく、それに流されず、それやそれをきっかけに、生かされていることに感謝し祝福し感嘆すること。そこから活かしていくこと。も生まれていく。
そして自分もまた「のさり」であること、
「のさり」として生きていくこと。
こういうことがまるごと「神秘」です。すごいですよね。
世界全体が贈りもの、授かりもの、みたいな。
日々これ祝祭。ありがとうございます。
「幸せ」から始めよう・「幸せ」を生きましょう
結局、幸せとは、幸せになる ものでなくて、「幸せだと知ること」「幸せだと感じること」、「幸せである こと を おもいだすこと」。
自分が幸せであることから始めれば、自分はのびのびし、感謝し、祝福し、生き生きとし、それが世界に反射もして、さらに幸せがふくらんでかえってきます。そこで起こることは「のさり」として受け入れ、感謝していく。いろんな一喜一憂も幸せのレッスン(シャドーワーク)として楽しんでいくこと。
いずれにしろ、自分・私という完結した世界があるのではなく、「大いなるイノチがこの移り変わる自分・私を生きている」のですから、最初から最後まで「幸せ」なんですよね。「愛」なんですよね。m(_ _)m 大船に乗って神秘をうたいましょう、愛を生きましょう(^ ^)
Inspired by 「幸せの羅針盤 山口誠治」(天草の「幸せラボ」代表)