大正時代の巡査さま と 私のおばあちゃん
私の祖母と祖父は、大正5(1916)年に結婚して、横浜で所帯をもった。祖父は明治17(1884)年生まれで、祖母が明治30(1897)年の生まれなので、32歳と19歳の年の差夫婦である。
現代でも、この年齢差はかなりのものであるが、大正時代の人はどんなふうに感じたのだろうか。女性が19歳で結婚は、当時としては普通だったのかもしれないが、もし、これが、今の芸能人カップルだったら、たいへんな芸能ネタである。
祖父母夫婦は、神奈川県横浜市に住み始めた。祖父は大工として働き、祖母は横浜の商店街で、「うなぎ蒲焼、鶏肉、どぜう、うどん」という看板で商売を始めた。祖母の親戚が近くに住んでいて、いろいろ助けてもらったのだという。
私の母は、祖父母の長女として大正13(1924)年に生まれているので、祖父母たちは、結婚後7、8年は、今で言う「ダブル・インカム」だったということになる。
店を開業して間のない頃のある日、店に“巡査さま“がやってきた。祖母は警察官とは呼ばないで、巡査さまと呼んだ。商店街の一角にある交番に勤務する巡査さまは、開業したばかりの店の様子や家族のことを調べに来たのだ。
引っ越してきて、間もない頃だったので、当然、出身地や生年月日なども聞かれた。年齢差13歳の夫婦だからか、巡査さまは、根掘り葉掘りと、関係もないようなことまで祖母に聞いてきた。
祖母に言わせると、巡査さまは、どうも祖母が、いわゆる“二号さん“ではないかと疑っていたらしい。よく映画やドラマでは、お妾さんに商売をさせる話が出てくる。
私は、祖母の30歳ぐらいの時の写真を見たことがあるが、瓜実顔のけっこうな美人だった。
二号さん疑惑は、近くに住む親戚のおばさんが、偶然、店にやって来たおかげで、疑いは晴れたらしい。それでも、巡査さまは、なかなか帰ろうとしなかった。お茶を出したり、商売のうどんを出したりした。
私が子どもの頃、祖母はときどき、うどんを打ってくれたが、これが絶品だった。
親戚のおばさんは、祖母を店の奥に呼んで、「もしかすると、アレを出せば、帰るかもしれない」と祖母にささやいた。
おばさんに言われたとおりに、巡査さまにアレを差し出したら、
「では、商売のうえで、何か困ったことがあったら、すぐ連絡してください」
などと言い残して、すぐに帰って行ったらしい。
大正時代の警察官の給料が、どのくらいだったかは、はっきりしませんが、交番勤務の警察官であれば、そんなに裕福ではなかったろうと思います。だから、新しく商売を始めた店に、それとなく袖の下を要求することも、あったのでしょう。
テレビの時代劇「必殺シリーズ」で、町方同心の中村主水が、地域の大店などで、やっていたのような袖の下が、大正時代まで存在していたわけです。
祖母は、昭和19(1944)年までその商売を続けていたが、戦争が激しくなり、物資が不足して、商売も立ち行かなくなり、空襲も激しくなってきたので、夫とともに故郷の福島に疎開した。
最近、マスコミで話題になった、“知事のオネダリ“のようなことが、今も日本のどこかで起こっているのかもしれません。この“オネダリ“が、祖母の経験した、巡査さまの“アレ“と、さらには、中村主水の袖の下と、深いところでつながっているような気がします。
もし私が、若い女性があそこの商店街で、店を開いたらしい、というウワサを耳にしたら、やっぱり、ちょっと覗きに行ってみよう、と思ってしまいます。