人道に反する処置に屈するわけにはいかない
どうもです。
前回に続き、今回も最近の読書などから引っかかった言葉や人物を自分なりに紐解いてみます☺︎
前回の記事も、
昨年の『名古屋STREETDANCE HISTORY』の10分の1くらいのビューでしたが笑、
それでもマニアックな方々からポツリ、ポツリと反応いただいたので、
そんなマイノリティの声を支えに今回もアウトプットしていきたいと思います。
【本日のお言葉】
『たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない』
by 樋口季一郎(陸軍中将)
常に冷静に”人道主義“を貫き、「世界で最も公正な人物の1人」と称された昭和の軍人”樋口季一郎“中将の言葉です。
知らない人も多いかもしれませんが、知っておいて損は無い偉人だと思います。
▲樋口季一郎(Wikipediaより)
ざっくり言うと、
彼は、上記の言葉を発した時の『オトポール事件』で多くのユダヤ難民を救いました。
それは後に大きな称賛も浴びましたが、
当時は騒がれることなく、むしろその数年後には、『アッツ島の悲劇』で部下の日本人を救えず、『日本初の玉砕戦の司令官』という汚名を背負うことにもなります。
ただ、そんな光も影もある彼ですが、
いつだって一貫した判断で真摯に生きてきた人物であり、
軍人の中では僕は1,2を争うくらい好きな人物です。
ほぼ全員がまともな判断が出来ていなかった(今見るとそう思えてしまう。)あの時代に、
このような人がいたことからは学ぶべきことが多いと思っています。
彼について詳細に述べるには、少なくとも四つの大きな出来事を紹介したいのですが、
すごく長くなってしまうので、
今回は、その中で1番最初に起きた『オトポール事件』のみを紹介し、考察してみたいと思います。
(本人にとってはあまり大きな出来事ではなかったみたいですが。)
次回以降も、残りの出来事について紹介したいと思いますので、
是非お付き合いくださいませ!!
オトポール事件とは
”オトポール“とは、当時の満州国(日本政府が中国東北部に作った傀儡政権国家)とソ連の国境に位置する都市です。
1938年3月、その地に大量の”ユダヤ難民”が押し寄せました。
当時、世界的に勢力を伸ばしていたのが“アドルフ・ヒトラー”率いる『ナチス・ドイツ』でした。
ドイツは、第一次世界大戦(1914-18年)で敗戦国となり、
多額の賠償金(2010年に完済‼︎)を抱えた上に世界恐慌の煽りもあって、超のつく大不況に陥りました。
そんなドイツを再興するために、国内で支持を集めた指導者が、
『ナチス党』を率いる”アドルフ・ヒトラー“であり、
1933年にヒトラーが首相となると、
「ゲルマン民族(ドイツ人)こそ優秀な民族で、それを分断させているのがユダヤ人とマルクス共産主義。」
という『反ユダヤ主義・反共主義』を前面に押し出し、
ユダヤ人を迫害し始めます。
(これが前回でも少し触れた”仮想敵“というやつですね。)
▲アドルフ・ヒトラー(ネットより拾い画)
ドイツにいたユダヤ人の多くは国外へと逃げ出しますが、
周辺国は『ナチス』の目を気にしてユダヤ難民を受け入れてくれません。
そんな時に、ユダヤ難民を労働力として利用しようとしたソ連が一時は入国を認めましたが、
工業者・技術者が多かったユダヤ難民に農業をさせようとして失敗し、
労働力としては思うように使えないと分かると途端にソ連滞在を拒否しだし、
ユダヤ難民は新たな地を求めて彷徨(さまよ)うこととなりました。
そこで、たどり着いたのがソ連と満州国の国境にある、オトポールという地でした。
ユダヤ難民はオトポールから満州国に入国し、
当時唯一ビザ無しでユダヤ人を受け入れていた上海に抜け、
そこからアメリカやオーストラリアへ亡命することを望んでいました。
しかし、
満州国はユダヤ難民へのビザ発給を拒否していました。
なぜなら、
満州国は、独立国とはいえ実情はほぼ日本の傀儡(かいらい)政府であり、
その日本は、当時はドイツと親密な関係にあり(1936年日独防共協定)、
1937年から続く支那事変(日中戦争)の仲介をドイツに依頼していたほどの関係だったので、
満州国がユダヤ難民を受け入れることで、
「ドイツの国策(=ユダヤ迫害)に反対した。」として、
日本とドイツの友好に悪影響を及ぼすことを不安視していたのです。
そんな中!!
当時、満州国で日本(関東軍)の特務機関長として勤務していた”樋口季一郎“は悩んだ末に、
「人道的見地」から、直ちにビザを発給するよう満州国外交部に対して指示をします。
そして、
南満州鉄道総裁“松岡洋右”に難民を移送するための特別列車の手配を要請し、
部下の”下村信貞”に外交上の手続きを、”安江仙弘”に現場での実務を命じ、
満州在住のユダヤ人”カウフマン”に食糧・衣服を調達させるなど、
おそるべき速さで対応をしていきます。
オトポールとはソ連との国境に位置しており、緯度も高いため、3月でも極寒です。
マイナス20℃を越えるような地で立ち往生するユダヤ難民を救う為には一刻の猶予もないとの判断だったのでしょう。
そんな”樋口季一郎“の尽力により、
ユダヤ難民たちには、五日間の満州国滞在ビザが発行され、ほとんど無条件でそのビザを発行しました。
ユダヤ難民はそのビザを使って満州国を抜け、
上海や、またはそこからアメリカやオーストラリアへと亡命することができました。
このユダヤ難民救出劇が、『オトポール事件』です!
この時に開かれたルートはその後の「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、
多くのユダヤ難民がこれを利用し、ナチスの弾圧から逃れることができました。
その数は累計“数千人”とも“2万人”とも言われます。
(※実は探求すると正確な数字は分かっていません。
ただ、もし2万人が盛りすぎだったとしても、数字の大小で功績が変わるわけではないと私は思っています。)
ちなみに、
『命のビザ』として有名なのは”杉原千畝(ちうね)“ですが、
これは杉原千畝がリトアニアで命のビザを発行する2年前の話です!
素晴らしいですね◎
オトポール事件その後
しかし、
”樋口季一郎“のこの判断は、
・満州国という独立国に対して、(外国である)日本人が口出しをしたということ。
・日本政府の判断ではなく、いち軍人の”樋口季一郎“個人の独断、独走であったこと。
・(前述したように)ドイツと日本が親密であったこと。
という側面が絡み合っており、
国内では褒められるどころか物議を醸し出し、処分を求める声の方が大きかったのでした。
もちろん”樋口季一郎”自身も、
その決断・進言をした自分はもう軍人としての道が終わってもいいという覚悟を持っていました。
実際に、
『オトポール事件』を受けて、ドイツは日本政府に対して公式の抗議書を突き付けてきました。
動揺した日本政府(外務省)は、抗議書を陸軍省へ回送し、陸軍省から関東軍司令部(満州に駐在する軍)へと回されました。
それを知って、
“樋口季一郎“は、関東軍司令官”植田謙吉”大将にこう書簡します。
〈小官(=私)は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない〉
“今日のお言葉”で出した名言ですね!
まさに正論!
盟邦=同盟国。
でも、これはお互い攻め合わないとか、戦争になったら協力するよとか、そういう侵略防衛についての同盟であり、
政策までも協力する義理はないし、
何より人道(=人として守るべき道)に反してまで行うことではない。
”人道“を何より大切にした”樋口季一郎“の芯のある発言ですね。
ステキです。
しかし、
実際はこれがさらなる物議を醸し出します。
というのも、
当時の日本は軍国主義であり、特に満州にいた関東軍は、そこから中国への領土拡大を目指す”拡大派“が大半を占めており、
逆に中国にこれ以上攻め入らず、もしソ連が攻めてきても守れるようにしておいた方が良いという ”不拡大派”であった”樋口季一郎“は、軍内で「弱腰」と揶揄されたりもしていました。
そんな関東軍ですから、”樋口”の処分を求める声はさらに高まり、遂には関東軍司令部の参謀長“東條英機“(のちに総理大臣)に呼び出され、事情聴取されます。
そこで、
“樋口季一郎“は、上司である“東條英機“の前で毅然と言いのけます。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか。」
これまた名言として語り継がれております。
この一言で、
”東條英機”は”樋口季一郎”を不問に付し、
ドイツに対して「当然の人道上の配慮によって行なったものだ」と返答したのでした。
「カミソリ東條」の異名を持ち、”拡大派“の中心人物であった”東條英機”ですが、
頑固者でありつつも、筋が通れば話の分かる人物だったそうです!
「世界で最も公正な人物の1人」と言われた男
それにしても、
例え罰せられたとしても、自分が正しいと思うことを行うという”樋口季一郎“の信念と行動はカッコイイですね。
結果についていかなる責任をも負う覚悟もステキだし、
私益よりも、国益よりも、もっと大きい”人間としての益=善“を選択した決断力もカッコイイし、
組織の中で、自身の思想がマイノリティであり、周りから揶揄されていてもブレることなく、
周りに協力者を得て、しっかりと物事を遂行する行動力も脱帽です!
こうありたいと頭では分かっていても、
行動に移せる人、実現できる人って少ないですよね。
想いのみでなく、行動力・実行力も伴っている。
素晴らしきリーダー像ですね!
もちろんリーダーとして、実行力を持てるだけの想いをカタチに出来るだけの役職に当時いたってこともポイントなんですよね。
確かに上司はいたし、自身も日本(当時は大日本帝国)に仕える職に就いていたわけですが、
自身の部下も多く、決断である程度の物事を進められるだけの地位にはいたわけですからね。
「正しいことをしたければ偉くなれ。」(by和久さん)
これはこれでひとつの真だよなぁと思うわけです。
▲和久さん(いかりや長介/『踊る大捜査線』より)
そんな”樋口季一郎”を紐解いてみると、
1888年に淡路島に生まれ、大阪→東京と陸軍学校に通い、
当時東大より難関とされた陸軍大学校に入学しています。
(当時の日本は軍国主義なので、エリートは陸軍大学校>東大という序列でした。)
そして、
卒業後は得意の語学を生かし、海外での特務機関を渡り歩いていました。
いわゆるエリートなんですね。
まぁ学業の成績が良いことが全てとも必要ともまったく思わないですし、
特に今の教育の中では本当にどうでもいいとすら思っていますが、
僕が感じたことは、ちゃんと為すべきことを積み重ねていたということが、
『オトポール事件』のタイミングで自身の正義を貫けたことに繋がったんだなと思うわけです。
当たり前ですが、
急に思い立って、すぐ何か事が為せるわけじゃないってことですし、
何か事が起きた時に、自分の正義を貫けるだけのチカラを持っていないと何も出来ないという事ですよね。
結局、
思い立った今ここからやり始める事が大切ですね。
何か事が起きてから慌てるのではなく、
いつ何が起きても良いようにチカラ蓄えていたいですね。
そんなユダヤ民族の救世主となった“樋口季一郎”は、
1945年の太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後、アメリカから戦犯として裁判(『東京裁判』)にかけられますが、
ユダヤ協会がアメリカに働きかけたことで、
無罪となり、穏やかな老後を過ごしたそうです。
情けは人の為ならず。
巡りめぐっての恩返し。
良いお話ですね◎
オトポール事件のもうひとつの真実
さて、
最後にここまで美談を語っておきながら、
別の切り口での考察?事実?も載せておきます。
”樋口季一郎“の『回想録』にはこんな一文が記されています。
〈ヒットラーのユダヤ追放に反撃を加えたのは、純粋に私の人道的公憤に基づくものであったが、私は日露戦争末期におけるアメリカユダヤの対日協力に思いを致し、いつか必ずユダヤ人との交渉のあるべきを予察し、いささかその道をつけ置くを必要と考えたものであり、これを極東において対ユダヤ関係の緊密化を希望したのであった〉
1904年に起きた日露戦争は、アメリカ(当時セオドア・ルーズベルト大統領)の仲介により終戦となったのですが、
そこに影で尽力したのがアメリカ在住ユダヤ人たちでした。
そのおかげで日本が戦勝国として『ポーツマス条約』(1905年)が結ばれたのですが、
その時の経緯を踏まえての言葉でしょうね。
要は、人道的な側面もあるけれど、
ユダヤ人を迫害するより、日本に取り入れた方がプラスが多いかもしれないという、国益に対する計算もあったということですね。
ユダヤ人というのは優秀で金融に明るい人が多い民族ですしね。
このように“樋口季一郎“は目の前の出来事のみでなく、大局を捉える力も高かったんでしょうね。この一文には、本当の人間くささというか優しさのみでないクレバーな頭の良さも感じられました。
人道が大切なのは当たり前ではあるけれど、
結局、それも自分と自分の周りを幸せにできてこそ貫けることですからね。
かと言って、他人を何とも思わないような非道なやり方はしない。
(まぁ当時は皆戦争しているんで、相手国を攻撃はしているんですが。)
そういうバランス感覚に長けた人間に僕は好印象を抱いてしまいますね。
ちなみに、
日本は『国際連盟』発足時(1920年)に、
序文で『人種平等』を謳(うた)うことを提唱しており、
元々民族差別、ユダヤ人差別の少ない国でした。
(提唱は議長である米国ウイルソン大統領によって否決されましたが。)
その為、
『オトポール事件』後に、国内の“五相会議”によって、
「猶太人(ユダヤ人)対策要綱」という合意文書を決定し、
ドイツやイタリアとの関係を尊重しつつも、ユダヤ人排斥は人種平等の精神に合致しない方針を国として定めています。
このように”樋口季一郎”のみが人道を大切にしていたわけではなく、
元々、日本が国家としても民族差別の少なかった側面もあります。
(とはいえ、満州国での行いが非道かった歴史もありますが。)
飾られた美談に酔いしれるのもいいですが、
現実的に捉えることも大切ですし、
歴史はどこから光を当てて見るかという視点もすごく大切ですね。
さて、
そんな誠実で優秀なリーダー“樋口季一郎”ですが、
『オトポール事件』の数年後に、
指揮官としての自分の無力感を感じる出来事が起こります。
終生に渡り、彼の心を占める出来事であったそうですが、
そちらについてはまた次回まとめられたらまとめてみます。
ではでは。