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此の始終十一巻、追って火中すべし。

どうもです。

今年に入って脈絡もなく少しマニアックな歴史を自己満的に紐解いてきました。
日本の軍人から能楽(一番の人気記事w)から幕末志士と続いて、欧米の社会学者から黒人公民権世紀の悪法などなど本当に脈絡ないですね。

今回は久々に日本史をまとめてみたいと思います。


本日のお言葉

『此の十一巻、追って火中すべし』
by山本常朝、田代陣基

これは、
葉隠』の序文にあたる“漫草(みだりぐさ)”を締める一節でございます。

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▲葉隠のいちょう本(Wikipediaより)

葉隠』と言えば、
武士道と云ふは死ぬことと見つけたり
の一文が非常に有名な書物ですが、
それ以外にも様々な言葉、言説が散りばめられています。

葉隠』に書かれている内容は、強い信念で書かれた言葉ばかりなので、
どこを切り取っても内容は通底している部分が多いのですが、
どの文面も、言葉の表面上の意味を受け取るよりも、
そこの真意を考えることが大切な書であり、
本質を見つめないと自分の生活にも役立てられないのでは無いかと思う書物です。

例えば、
武士道と云ふは死ぬことと見つけたり
という言葉も、
これを「命投げ打って(国の為に)尽くせ」と意訳して、
第二次世界大戦時の日本軍の玉砕精神に利用されたという話もありますが、
本当は全然違う意味である。
ということが色んな解釈、解説を読み解いていくと感じられるわけです。

ということで、
今回は『葉隠』について少しだけ掘り下げてみたいと思います。


葉隠とは


葉隠』は、江戸時代中期に書かれた書物であり、
肥前国(現、佐賀県)を治めていた鍋島藩の藩士であった“山本常朝(つねあさ)“が、武士としての心得を口述し、それを同藩士の“田代陣基(つらもと)“が筆録し、まとめたものとされています。

全11巻からなり、
原文の一部はWEBでも観ることができますし、
要約した現代語訳や、漫画など内容を知れるものも沢山あります。

▲葉隠原文Web


内容にも少し触れていきたいと思いますが、
その前に、なぜこの『葉隠』が書かれることとなったのか、
その時代背景を押さえておくことが大切だと僕は思います。
これを知るか知らないかで、『葉隠』に書かれている言葉、内容の捉え方が変わってくると思います。

ということで、
なぜ『葉隠』が生まれたのか、
どのようにして『葉隠』が生まれたか、
まずはそこから紐解いてみたいと思います。


時代背景


葉隠』が書かれたのは江戸時代中期ですが、
江戸時代とは1603年に”徳川家康”が江戸(現、東京)に幕府を開いて始まったことは周知の事実だと思います。

その江戸時代が始まるまでは、いわゆる戦国時代(室町時代後期〜安土桃山時代)だったわけでして、
織田信長、豊臣秀吉、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗などといった各国(各地方)の戦国武将がチカラを持っていた時代でした。

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▲戦国時代の合戦の様子(Wikipediaより)


しかし、
徳川家康が天下統一を果たし、江戸幕府を開いた後は、
1615年に起きた徳川家×豊臣家による『大坂夏の陣』にて豊臣家が滅亡して以来、
大きな合戦は見られなくなり、
平和な”天下泰平”と言われる時代が築かれていくこととなります。
(そのまま江戸時代は260年間も続く超ロング政権となります。)


なので、
葉隠』が成立された1716年(享保元年)は、
戦国時代には各地で起きていた合戦も起きなくなって100年以上経った頃でした。
元禄太平記』『赤穂浪士』でも有名な天下泰平と呼ばれた元禄時代(1688〜1704年)よりも後の時代であり、
すっかり平和になった世の中で、
武士の価値観も戦国武士から近世的武士の思想に変革していた時期でした。
良く言えば武力より知識(知恵)の精神成熟した時代であり、悪く言えば平和ボケの時代と言えたかもしれません。

そして、
思想のみならず、武士としての職務も変わっていっていました。
戦国乱世では、戦(いくさ)での成果が手柄であり、報酬だったまさに戦士なわけですが、
江戸時代では戦(いくさ)がないわけですから、
武士は、今でいう役所の職員とでも言うような職業であったとも言われています。
(身分や階級によってかなり違ったみたいですが。)

そんな“武士”としての誇り・生き甲斐が変わりつつあった時代に、
都である江戸から遠く離れた佐賀の田舎から、
山本常朝”が、『武士道』について後輩の“田代陣基”に語り尽くしたのが、
この『葉隠』となります。


山本常朝とは


山本常朝”は、
1659年(万治2年)に佐賀藩の藩士“山本神右衛門重澄”の次男として生まれました。
ちょうど江戸幕府の基盤が固まりつつあったくらいの頃ですね。

常朝”は、父・重澄が70歳(!)の時の子どもということで、
生まれつき病弱だったそうです。

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▲山本常朝(Wikipediaより)


そして、
9歳で佐賀藩の2代目藩主“鍋島光茂”の御側小僧(召使い)として召し取られて以来、
御小姓御傍役と足掛け33年間、
藩主”光茂”の側近として仕えることとなります。

その33年間のうち、
21歳の頃にしばらく御役御免となってしまう時期がありました。

藩主に仕えることこそが無常の喜びであった“山本常朝”は、
当時失意を覚えますが、
その時期に、彼は“湛然(たんねん)和尚”から仏道を学び、
また佐賀藩で隠居していた藩随一の学者といわれた“石田一鼎(いってい)”にも師事し、
その学びを深めていきました。
(この頃にのちの『葉隠』に通ずる慈悲心が育ったと言われております。)

その後、
御書物役として側近に復帰したのち、
1696年には、和歌のたしなみが深い藩主“鍋島光茂”の兼ねてからの願いである「古今伝授」を得ることを使命とし京都と佐賀を奔走し、
1700年、遂に「古金伝授」を受けると、それを藩主“光茂”に届けて喜ばれたといいます。

しかし、
同年、藩主“鍋島光茂”は69歳で逝去します。
山本常朝”はこの時42歳。
9歳の頃から30年以上仕えてきた“常朝”は君主のあとを追って殉死したいという気持ちがあったものの、
当時はそれが禁止されていたので、
切腹ではなく、ひたすら冥福を祈る為に出家することを願い出ました。

そして、
そのまま山奥に隠棲しました。

彼は戦(いくさ)をしたことはないけれど、
君主が死んだら自分も後追いで死ぬんだというほどの執念と忠誠心で、
君主の為に一生を捧げた藩士でした。


田代陣基とは


さて、
そんな“山本常朝”が隠棲してから10年後、
田代陣基”という男が“常朝”を訪ねます。

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▲田代陣基(http://okusa.saloon.jp/asahi/hagakure/5syou.htmlより)


田代陣基”は、“常朝”の19歳年下の佐賀藩藩士であり、
三代目藩主”鍋島綱茂“に仕えていましたが、
四代目藩主“鍋島吉茂”の時に御役御免となり、
その翌年から“山本常朝”の元を訪ねるようになりました。

山本常朝“も一度御役御免になった際に失意の中で”湛然和尚”、“石田一鼎”に師事したように、
田代陣基”も思い悩み、先人の話を聞きたくなったのでしょう。


葉隠』の序文にあたる“漫草(みだりぐさ)“には、
なぜ“山本常朝“に逢いに行きたいと思ったのかという経緯が“田代陣基”の視点から書いてあります。

以下、”漫草“の意訳です。

昔は、国や君主の為に尽くすことが(人間としての正しい道、正義)であり、
その為に死ぬ(殉死)ことも、の働きであり、に迫られて起こることなのに、
最近は殉死(後追い切腹)を禁じているし、そうした節操(志を守ること)を良しとしなくなった。

そもそも、
こうした義士(忠義の厚い者)こそが国の根幹を成すものであり、
今後、義士がいなくなれば、君主は依るべきものが無くなってしまう。

(殉死の)禁止に従えば、志は満たされず、
禁止に従わなければそれは害だということになってしまいます。

その両端に一つの道を引き、
袈裟を着て頭を丸めて、在るわけでも、いないわけでもない影法師のように、
死を待つ仮寝の庵に閑居している者こそ”山本常朝“である。

彼こそ、
その道の人であり、尊い人である。


田代陣基“は自身の価値観と、時代の価値観の相容れなさを打破すべく、
先輩藩士“山本常朝”の話が聞きたいと、
雪を打ち払いながら彼が隠居する山奥を目指したのでした。

そして、
1710年(宝永7年)3月5日、
田代陣基“と”山本常朝“が出逢いました。
陣基“33歳、”常朝“52歳のときでした。


そうして”山本常朝“の元に足繁く通い、
彼の語りを書き記してはまとめ続けること7年、
1716年、『葉隠』は完成しました。


『葉隠』は何のために書かれたのか?


7年もの間、“山本常朝”が“田代陣基”に語り続けた内容とは一体何だったのか?
田代陣基”は、“山本常朝”に何を求めていたのか?

葉隠』の序文ではこのようなことも書かれています。


この聞書全十一巻はただちに燃やしてしまわねばならない。
その内容は、今の世の中への批評、武士たちの善し悪しについて、推量や世間の噂のたぐいであって、ただ常朝殿がご自分の後のもの学びのために憶えておられたのを話された、その話のままに私、陣基が書きつけたので、他の人が見るようなことになれば、行く行くはひとの恨みを買ったり、好ましくない事態(処罰・喧嘩など)を招くかもしれないから、必ず燃やすように。
(『新校訂 全訳注 葉隠(上)』より)

本日のお言葉に書かせてもらった一文の現代訳内容がここです!

そうなんです、
葉隠』とは元来、佐賀鍋島藩の藩士の為だけにまとめられた闇の書であり、
門外不出の書とされていた中で、
それを佐賀藩の藩士たちが写しながら愛読していたと言われています。

その為に、
山本常朝”が、自藩の藩士たちを叱咤激励する為に、
また当時の時代の変遷に憂いを覚えていた2人での語らいであった為に、
かなり過激な内容になってしまったみたいで
具体的には世の中への不満や個人攻撃もあったそうなので、
そんな争いの種は残さない為に燃やすようにと、
あらかじめ注意書きがされていたのですね。

そんな彼らの願いも虚しく、
この『葉隠』は、江戸時代では禁書であったにも関わらず、
近代化の扉を開いた明治の後半、明治39年に初めて活字化され、
その後、昭和15年に岩波文庫となった際に全国的に広まったのでした。
佐賀の田舎の内輪に向けた武士道が、
なんと現代に生きる僕らにまで読まれ、全国どころか世界的にその世界観が評されているなんて、
これまた面白いことですね!

国の中心地である首都や都市(または先進国)が、
いち早く時代の流れに乗って価値観・行動様式をアップデートしていくことは、
人類史に置いて何千年と繰り返されてきたことでした。

しかし、
それが本当に“アップデート”なのか?
古くなった価値観や行動様式は、新しい時代となれば無用のものとなるのか?

首都や大都市の流れの速さに反して、
田舎にはそれまで続いてきた価値観を大切にした人間がいて、
逆にそれが逆輸入的に都市に衝撃を与えることも時折ありますよね。

HIPHOPだって、そういう生まれ方をしたスタイルもたくさんありますよね。
地方が守り続けた土台が深化したり、化学反応したりして
その土着性を持って中心地に衝撃を与えることってありますよね。

武士にしたって、
人が殺し合う戦(いくさ)はない方が良いに決まってますし、
合戦をせずとも政治力を発揮できるならそれは進歩であったのだと思います。
(戦国時代の前は貴族政治だったんですが。)

何にせよ、
戦がなくなれば、武士自体が不必要となるのか?武士にとって武器が不必要になっただけなのか?
武士とは一体何なのか?
葉隠』は武士として大切なものまで捨てていないかと問うているわけですね。

何かを得るということは、何かを捨てるということですからね。
学習こそが強みの人間は、また忘れることができることも強みであり弱みであったりしますからね。


これまたどの時代でも繰り返されてきた議論じゃないでしょうか。
時間を重ねたことで変化したり、技術革新によりやり方が一変したり、
多様性が広がることで分断や葛藤が生まれることはありますよね。

ストリートダンサーやDJに当てはめてみても、
レコードからデジタルに。
ストリートからスタジオに。
シェアされにくい裏ビデオから誰でもシェアできるYouTube/SNSへ。
不良からKIDS/学生へ。
SHOWからバトル、WSへ。
チームからナンバーへ。
などなど。


どっちかが良くてどっちかが悪いわけではない変化は多いわけで、
その判断は個々の感性に委ねられているわけですね。


ただ、そういった変化でカタチは変われど、
本質は変わらないものもあるのかもしれないですね。
そこに、ある意味で過激な内容の『葉隠』が、
いかにして時代を超えて人々の心を掴んできた理由があるのかもしれませんね。

ということで、
長くなってきましたので、
内容についての掘り下げは次回に回したいと思います。笑

ではでは。


【参考文献】


『葉隠 上・中・下』山本常朝・田代陣基(岩波文庫)

『校註葉隠』(本文 校註者:栗原荒野)

『葉隠 新校訂 全訳注』菅野覚明ほか

『葉隠: 現代語で読む「武士道」の真髄!人間の「覚悟」と「信念」』奈良本辰也

ほか



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