高貴な動機と遠大な目的をもった社会的、経済的実験〜全国禁酒法・前編〜
どうもです。
今年に入って思いつきで歴史記事を書いてますが、
自分としては色んなことに興味があって、色んなことを面白いと思うタチです。
一応、
仕事としての専門は理学療法と脳科学になるわけですが、
もちろん踊りも音楽もカルチャーも大好きなわけで、
でも、本当に好きなものこそ、上には上がいることを痛烈に感じちゃうんですよね。
だから、
そちらに関してはインプットの毎日で、
その分、専門外のことは素人目線で面白いと思ったことをどんどんアウトプットしようと思ってやってる感じです。
という言い訳をかましましたが笑、
興味あることを調べていくと、分野がどんどん入り混じってくるのが普通ですよね。
”歴史“を学ぶって、そこから文学いったり芸術いったり心理学いったり宗教いったり地理にいったり科学にいったり。
そういうのが面白かったりするんですよね。
そんな感じで今日は、誰か1人というより、
ざっくりとした“ある時代”を改めて考え、感じ直してみたいと思います。
【本日のお言葉】
『(禁酒法は)高貴な動機と遠大な目的をもった社会的、経済的実験』
by ハーバード・フーヴァー(第31代アメリカ大統領)
というわけで、
今日はこの名言(迷言?)を生み出したアメリカの“禁酒法”について記してみたいと思います。
これは、
1920年〜1933年、アメリカで施行されていたのが『全国禁酒法(ヴォルステッド法)』のことを指しています。
1919年に『合衆国憲法修正第18条』として成立し、翌1920年から施行された憲法であり、
『アルコール(酩酊性飲料)の製造、販売、運搬、輸入、輸出を禁止する。』
という憲法でした。
一方で、
酒類の購買や飲酒自体は禁止されておらず、
ある意味で“抜け道”が多い憲法・法律でした。
なぜこのような法律ができたのか?
何が狙いで、どうなることを望んでいたのか?
できたことで何が変わったのか?
どんな副産物があったのか?
成立するまでの期間も含めて確認していきたいと思います。
アメリカとアルコールの歴史
まずはアメリカではどんなお酒が飲まれてきたのかをまとめてみます。
前回の記事でも記したように、
アメリカは16世紀〜18世紀の植民地時代を経て、1776年に独立しています。
植民地時代のアメリカ人は、主に“ラム酒“や“林檎酒“(アップルサイダー)を飲んでおり、
当時は飲酒自体は“何ら問題のない行為”とされてはいました。
ただ、
慢性的な労働者不足でもあったため、働けなくなるほどの酒の乱用や泥酔に関しては厳しく法規制されていました。
そして、
アメリカ独立後から南北戦争終了後となる1870年代頃まではウイスキーが飲まれるようになり、
19世紀初頭にはアメリカ国民の飲酒量は一気に増加しました。(現代アメリカ人の2〜3倍にまで増加しました!)
▲アメリカンウイスキー(イメージ画)
この時代(19世紀)にウイスキー、いわゆるスピリッツ(蒸留酒)が飲まれていたのにはいくつか理由がありました。
まず、
当時世界中の人々に“スピリッツ信仰“と言える考えが広まっており、
“ウイスキー”は、滋養豊かな食物であり、
さらに風邪・熱病・凍傷・消化不良・骨折など種々の疾病に効果ある“万能薬“とされていました。
そして、
アメリカで穀物生産が急速に伸びたものの輸送網が未発達だったため、
穀物を加工してから輸送する必要があり、
腐敗せず、収益率の高いウイスキーが生産量を伸ばしたという背景もありました。
さらに、
酒以外の飲み物、例えば、“水”においても、
清潔な水を安価に安定的に入手出来ない時代であり、
その上、当時は水には栄養がなく体に有害でさえあるとの信念が存在していました。
他でも、
ミルクは大人より子どもの為に確保すべきであり、さらに腐敗しやすい為に日常飲料とはならず、
紅茶は高価な上にイギリスに支配されていた植民地時代のイメージが残っていましたし、
コーヒーも高価な飲み物でしたし、
ワインも輸入に頼っていた為に高価であり、エリートの飲み物とされていました。
このような背景もあり、
ウイスキーが国民的飲料として、朝から夜まで日常的に飲まれていました。
(たった100年前でこれだけ常識が違うんですね。)
しかし、
一方で、ウイスキーの生産と消費がうなぎのぼりとなることで、
飲み過ぎて仕事にならない、日常生活が立ちゆかない、それでも自己破壊的飲酒にふける人々が出現するようになり、
社会問題になっていきました。
その為に、
酒の乱用を防ぐために節酒を呼びかける組織が出てくるようになりました。
州レベルの組織では「コネティカット道徳向上協会」「マサチューセッツ暴飲抑制協会」(いずれも1813 年結成)、
全国組織としては「アメリカ禁酒協会」(1826年結成)などがありました。
(あくまで節度ある酒を求める運動が多かったのがこの時代の特徴です。)
また、
節酒の観点でウイスキーよりビールが推奨されるようになり(アルコール度数が低いため)、
ビールが品質改良を重ねていくことで消費量を伸ばし、
また水の安定供給も可能となった為に、
ウイスキー以外の飲料が日常に摂取されるようになり、
1840年以降はアメリカ人の純粋(無水)アルコール摂取量は急激に減少していきました。
▲アメリカ国民1人当たりの年間アルコール消費量(参考文献より)
しかし、
後述する移民問題もあり、飲酒量を完全に抑えることはできず、
1850年代にはメイン州(本土の最東北部に位置)で最初の「禁酒法」が制定され、それを皮切りに11 州と2準州で成立しました。
▲禁酒運動支持のリトグラフ(Wikipediaより)
これらは、
1861年〜の南北戦争によってなし崩しとなってしまいましたが、
(酒やタバコは戦争では軍需品となるので、禁止してられなくなったのです。)
南北戦争終了後、さらに情勢が変化していきました。
移民による社会構造変化
さて、
南北戦争については前回の記事でも紹介しましたが、
南北戦争が北部の勝利で終わり産業資本家が政治の主導権を握ると、
アメリカ社会では工業化が急速に進みました。
その為、
人びとが雇用を求めて工場や会社のある町へ移動したことで、都市化現象は加速しました。
さらに、
慢性的な労働力不足に悩まされてきたアメリカは、多くの労働者を海外に求めたため、
主として東·南ヨーロッパからの移民の流入が、それまでにない規模と多様性をともなって起こりました。
植民地時代は、アングロサクソン系のイングランドからの移民が多く、
以来、彼らがアメリカ社会の主流派を形成していましたが、
南北戦争前の1840-1860年からは、非アングロサクソンであるアイルランド人やドイツ人が大量に流入しました。
その結果、
20世紀までに住民の半数以上が移民によって占められる大都市が増え、
中でもシカゴでは87パーセント、ニューヨーク市では80パーセントが「外国人」となりました。
ここに対立構造が生まれていきます。
資本家の多くは移民二世、三世となっていたアングロサクソン系白人やユダヤ人であり、
宗教はカトリックから分裂したプロテスタントが多く、
特に厳格なプロテスタントであるピューリタンは“禁欲主義”の側面も持ち、
先ほど記したようなウイスキー全盛の時代を経て、
飲酒量を減らしていました。
(※前々回記事『精神のない自由人、心情のない享楽人』参照)
その一方で、
資本家の元で働く労働者の多くは非アングロサクソン系の新たな移民となりました。
特に多かったアイルランド人やドイツ人は、
カトリック教徒が多く、ともに酒が大好きでした。
(アイルランドはウイスキーの伝統国であり、ドイツはビールの代表国ですね。)
このように、
酒を好む民族の流入に伴い、
飲酒問題が再び注目されるようになり、
また宗教的にも、
プロテスタントの牧師たちが、カトリックの台頭を危惧するようになりました。
酒場の隆盛
そんな情勢の中、
アメリカ社会にとって重要な意味を持った場所が、“酒場”(SALOON)でした。
当時の“酒場“は、ただ酒を売るだけの場ではなく、
都市住民にとって不可欠な“多機能的施設“でした。
酒場は1880年〜1900年までの20年間で、その数が倍増したほどでした。
酒類を販売する店はアメリカ全土に存在していましたが、
その多くはシカゴ、ニューヨーク、ボストンなど北部の産業都市に集中していました。
(19世紀末には、シカゴ1都市だけで南部15州にあったすべての店舗の数よりも多かったほどだそうです。)
そんな北部に集中する、「労働者の為の酒場」では大きく分けて四つの機能を有したと言えるそうで、
その機能をざっくり紹介します。
1. 気分転換
酒場は言うまでもなく、仲間との飲酒や会話を楽しむ場であり、また、楽器演奏やコンサート、チェスやビリヤードなど娯楽も展開されました。
多くの労働者は、居住環境や労働条件が劣悪であり、そんな労働者たちにとって娯楽ある酒場はある種の“避難所”となっていました。
もちろん、売春や麻薬取引の温床になったという側面もあります。
2. 食生活の支援
フリーランチと呼ばれる飲み物を注文すると簡単な昼食が無料でついてくるサービスが定型化していました。
昼の客を確保する為に始まったサービスだったのですが、これが貧困者を飢えから救った側面にもなりました。(恐慌など有事の際には実際に無料で食料を振舞った酒場もあったそうです。)
3. 社会生活上の支援
情報を手にしにくい時代において、酒場での会話は貴重な情報源であり、また新聞や公衆電話も置かれていたことから、情報センターとして利用する人も少なくなかったそうです。
さらに、新参の移民や失業中の労働者は仕事の情報を求めて酒場に行くなど”職業斡旋所”としての役割も果たしていました。
逆に経営者が酒場に労働者を探しに行き、酒場で面接することもあったそうです。
さらに、小切手でもらった給料を現金化するための銀行のような役割や、トイレの無料使用も、当時不足していた公衆トイレの役割をカバーしていたそうです。
4. 行事・会合場所の提供
ほとんどの酒場には“裏部屋”が設けられており、そこの使用料はほとんど無料に近いカタチであった為、選挙の投票所や裁判所といった公的なものから、冠婚葬祭や政治クラブ、文学クラブや同好会などの私的なものまで様々な目的で利用されました。
特に政治クラブでの利用は、酒場の主人が政治進出していくきっかけにもなりました。(酒場ごとに癒着したある意味腐敗政治の温床となりました。)
このように、
酒場は、”貧しき者の社交場”として、様々な役割を果たしていたのでした。
そんな酒場業界に関わりの深かった売春、賭博、地方行政の汚職といったものをよく思わなかったのが、
アメリカ独立以来の主流派と呼ばれるアングロサクソン系の人々でした。
こぼれ話〜JAZZの誕生〜
さて、
ここで話は少し逸れますが、
20世紀初頭の酒場から生まれたのが、
JAZZでした。
JAZZ発祥の地は、ルイジアナ州のニューオーリンズといわれております。
ニューオーリンズは前回の記事で紹介した“三角貿易”で、
アフリカ大陸から黒人奴隷がアメリカ大陸に送られてきたときに船がつく港がある場所でした。
そんなニューオーリンズでは、
アメリカの玄関口として奴隷以外の移民も入り込んでおり、
様々な人種・文化・音楽が混ざり合っていました。
▲ORIGINAL DIXILAND JAZZ BAND(Wikipediaより)
そんなニューオーリンズの歓楽街“ストーリーヴィル”では、
酒場や売春宿がひしめき合っており、
そこのBGMとして生まれたのが、JAZZでした。
アフリカ由来の“ラグタイム“や“ブルース“に、
ヨーロッパ由来の西洋楽器やハーモニーが合わさり、
様々な音楽がニューオーリンズで発展・融合し強烈な“化学反応“を起こした結果がJAZZだったといわれております。
やっぱり、
いつでも混沌の中から新しいものが生まれるのですね。
奴隷文化があって良かったなんて絶対に言えませんが、
こうした副産物が産まれたことは不幸中の幸い、救いの光ではありますね(?)
▲写真を紹介したODJBの音源
※JAZZで初めて商業用レコードを発表したBANDと言われています。
そして、
いつの世も人々の気分を高揚させるためには、
音楽と酒は切っても切り離せず、
その先に性や快楽が深く絡んできているという歴史も動かしがたい事実ですね。
(ドラッグの歴史も中々に面白いので機会あればまた。)
そんなこんなで、
ニューオーリンズの”ストーリーヴィル“は、
1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦したことや、
この後に述べる禁酒運動が活発化したことも含め閉鎖されます。
そのことで、
ニューオーリンズのJAZZ奏者たちは北上し、
新たな土地で新たな音楽を芽吹かせていくこととなります。
それについてはまた次回以降、触れたいと思います。
禁酒運動の活発化
というわけで、話を戻しまして、
酒場が大衆文化としてなくてはならないものとして定着をしていましたが、
そんな酒場の在り方に反発した組織が、
『反酒場連盟(ASL: Anti Saloon League)』と『女性キリスト教禁酒同盟』でした。
『女性キリスト教禁酒同盟』は、
家庭を壊す元凶である酒をなんとかして追放したいと願う女性たちが、
1873年に酒場の閉鎖を求めて押しかけるという実力行使に出たのがきっかけで結成された組織でした。
しかし、
当時女性に参政権はほとんどなく(4州のみ)、結局、圧力団体にはなりえませんでした。
いっぽう、
『反酒場連盟(ASL)』は 1893年にオハイオ州で、プロテスタント系牧師と資本家が中心となり禁酒法成立を目的として結成された全国組織でした。
この組織は、プロテスタントの牧師や教会関係者が中心となり、
それを産業資本家たちが後ろ盾となり、
政治・社会の浄化と産業の効率化を目標に、
酒場を攻撃していきました。
主流派である資本家たちは、労働者の飲酒量を下げて工場の生産効率を上げることと、
労働者が集まる酒場を舞台に行われる腐敗政治を廃止することを目指しており、
またプロテスタントの牧師たちは、カトリック教徒が大量に入ってくることに危機感を持っていたために、
お互いに利害が一致して団結をしました。
そして、
酒類の製造や販売をしていたのはほとんどが非主流派(非アングロサクソン移民)でした。
ドイツ系がビール業界を、アイルランド系が蒸留酒業界を支配していました。
なので、
もし酒類の製造や販売を禁止することができれば、
酒造業界と酒場をつぶすことができ、
それが、ひいては政治の腐敗(主流派から見れば)をなんとかできると考えた人たちが、
チカラを合わせて禁酒法の成立を目指したのでした。
※前々回の記事にあるように、この頃(1900年前後)にはピューリタンの禁欲主義は資本主義の発展に飲み込まれ、既にマネーゲームの始まりとなっていた時代ともいえます。
ですから、
そんな『反酒場連盟』の活動は、
大々的な全国禁酒法をあえて掲げず(飲酒自体を悪く言うわけでなく)、
無法者をはじめとした社会悪を生み出すとした酒場や酒造業界を非難するという作戦を取りました。
▲禁酒派の宣伝ポスター
そうすると、
“自称・人格者”であり、“民族主義”であった中産階級(WASP:アングロサクソン白人)の人間も広く『反酒場連盟』を支持するようになり、
酒場から客足が遠のいていきます。
さらに酒類販売許可証の値上げも実施され、
今まで以上に利益を確保することに固執した酒場は、
売春やギャンブルとこれまで以上に深く結びついたり、
子どもにも飲酒させるような店が出てきたために、
一般世間の中でも酒場は反感を持たれるようになってしまいました。
その結果、
1900年代に入ると、34の州および準州で禁酒法が成立しました。
そして1919年、
ついに連邦レベルでの『全国禁酒法』が成立しました。
冒頭でも示したように、
州の法律ではなく、アメリカ全土の憲法の修正条項として成立したのです。
※前回記事でも憲法の修正条項が話題に出ましたが、アメリカは憲法を何度も改正しているのですね。日本では一度も改正されたことはありません。良い悪いは皆さんで考えてみてください。
ここまでの経緯を見ると、
『全国禁酒法』が酒類の“製造“や“販売“, “運搬“を禁止する法律であり、
“売る“、“作る“は違法 だが、“買う“, “飲む“ことは許された。
というなんとも奇妙な法案になった意味が少し分かりますよね。
乱暴にいえば、
政治の為に、“酒場”を潰したかった勢力がいて、
その為に、禁酒運動を展開し、世論を味方につけて改正に持っていった。
ということでしょうか。
(憲法改正前には酒場を取り巻く環境は既に変わっていて、
禁酒運動派ももはや改正する意義を感じていなかったと指摘する人もいるそうです。)
これってどこかで見たような聞いたように感じる話ですよね?!
実は100年経った現在も、同じような図式は至る所で散見されています。
前回記した“南北戦争”だって、
“奴隷解放”という人道的な争点の為の戦争ではなく、
それぞれの利益を追及する為の対立が発端で起きた戦争なわけですよね。
結局は、
表向きな理由が掲げられていたって、
丁寧に紐解けば、そこに隠された真意が見えてくるというわけですよね。
陰謀論とかそういうことではなく、
政治とはそういうものだとも言えますし、
結局、政治を利用できる人が世界を動かしていきますし、
政治を利用できない人が泣き寝入りしていく事も多いのかと。
はたまた、
政治に頼らずとも自分自身の世界を広げていく人ももちろんいます。
あなたはどうしていきたいか?
どうなっていくことが理想なのか?
その為には次の一歩は何するのがいいのか。
それぞれ考え、感じ、動いていきたいことですね。
このあたりが歴史を知ることは未来を繋げていくのに重要なことだと思うゆえんです。
大きな世界観を、自分の手の届く範囲に変換して考える。
自分の手の届く範囲を広げた先の世界も想像する。
自分に言い聞かせていたりします。
さて、
長くなりましたので今回はこの辺で。
次回は禁酒法以後のことを書きたいと思います。
カクテル、マフィア、SWING JAZZ、、、
今にも通じる副産物が色々生まれたのもこの時代でした。
あくまで表面をサラリとですが、
それで興味が出ればdigっていただければという感じです。
ではでは。
参考文献
・「アメリカ禁酒運動の軌跡」岡本勝(ミネルヴァ書房, 1994)
・「禁酒法とアメリカ社会」常松洋(大阪産業大学, 1986)
・「アメリカにおける酒類とタバコの規制に関する研究」岡本勝(平成28年度嗜好品文化研究会, 2016)
・「アメリカ社会における酒場の盛衰」岡本勝(広島大学総合科学部紀要, 2001)
他