【ポンポコ製菓顛末記】 #54 ミッドライフ・クライシス
日頃、日本人ばかりと付き合っていると、日本人の風土、常識というものに違和感を感じない。こんなものかと。しかし、外から見ると意外とそうではないらしい。前回の続きで日本社会の閉塞感について考えたい。
「他人に都合よく(平気で)頼めるひと」と「そんなことは考えないひと」
「他人に都合よく(平気で)頼めるひと」は利己的で自己チュウ。解りやすく言えば、「今だけ」「カネ・モノだけ」「自分だけ」を良しとする拝金・拝物主義。それも「直ぐに!!」という風土、である。TV、メディアはそれを煽り、表現として「ヤスッ」「スゴッ」「ハヤッ」を乱発する。
同様にそういう人たちは皆と同じが原則で、前例や他人と異なるリスクを侵さない生き様・生き方、考えを封殺する。
結局皆と同じような顧客の求めにひたすら社会、企業が応じ究極の皆が過ごしやすいインフラを社会全体で求めた結果、実際は思い通りいかない現実社会のフラストレーションに対する耐性を皆は退化してしまった。耐性が弱いために嫌なことは他人に回す、投げる。それを言えない人達は忖度をする。本心は嫌だけど、或いは逆にそうして欲しいけど、解ってくれよと期待する。
所謂「空気」だ。極端に期待し、当たり前と思うのが全能感のオトナ。それが「他人に都合よく(平気で)頼めるひと」たちだ。
ジャン・ジャック・ルソーは述べている。「子供を不幸にする一番確実な方法は何でも手に入るようにしてあげることだ」と。つまり全能感のまま成長させることで、自立を奪う。
一方、今だけでなく「将来や先を睨み」「カネ、モノだけでなく目に見えない幸せ」を大切にし、「自分だけでなく他人や地球全体をも」意識する人たちは「他人に都合よく(平気で)頼む」ようなことは考えない。とうふや相模屋の社員のような「かっこいい人、いいヤツ」だ。
日本人の風土
昨今は海外ジャーナリストや海外勤務を続けた日本人ジャーナリストによる、外から見たそんな日本社会の指摘が目立つようになった。
彼らは総じて日本びいき、日本が好きである。技術、文化、民度、何れも素晴らしく世界でも珍しい国だと認めている。
と同時に、海外からの常識、基準からみて異常と感じる部分も多いと指摘している。
その異常さはもともと古来からあった『ムラ』というタテ社会構造に明治維新以降急速に西洋化して1億総中流という効率よい「社会インフラ」を構築した姿だ。そのために多様性を排除し、均質製造、均質知識を狙って、企業組織、教育制度を創ってきた。
その経過の中で国民には個人の自由・幸福を犠牲にしてきた。それは「他人に迷惑をかけない」「文句を言わない」「〇〇ねばならない」という風土だ。
この「ねばならない」というプレッシャーは自分に対しては我慢を強いて、他人には(極端に)許さない対応を迫る。自分も他人も受け入れられる、許容できる耐性があれば良いが、そうでなければ鬱屈し精神衛生上よろしくない。
この鬱屈、閉塞感から自ら逃れるために実は「他人に都合よく(平気で)頼み」、逃れられなければ権威や地位をえて実行できる立場になると同じことを繰り返す。
合理と道徳(理想) は時と場合によるのに凡人は前提を無視し都合の良いように解釈する。過去の賢人の言葉には前提がある。マキャベリは不道徳が許されると言っていない アダム・スミスは神の見えざる手が入るから何でも自由にやって良いなどと言っていない。
そんな自分に都合よく考え、行動する指向、それは古今東西、人間の性だが、日本人は少々度が過ぎる。例えば、「日本人がやりたくないブラック労働は外国人に」という考えに基づいていることは今更説明の必要もないだろう。外国人はどんな辛い仕事でも安い賃金でニコニコ働く「おしん」のような存在だと(勝手に)勘違いしている。
そのように、多くの(日本)人が「他人に都合よく(平気で)頼み」、物事自分に良いように解釈しているにもかかわらず、もし皆が日本って便利だけど「幸福を何となく感じない」「自由な雰囲気が無い」「緊張感を強いられる」と感じていたら、そういう日本の常識は海外から見たらちっとも常識ではないというのだ。
風土の原因
良くも悪くも日本は海外と接することなく純粋培養されてきた。何せ他国に攻められたのは鎌倉時代の元寇だけ。海外交易は多少あっても基本的に国内市場専門だ。しかし海外は違う。少々小さいが下図の世界史をみてほしい。
西洋、日本以外の東洋、何処もかしこも攻めて攻められて民族、国の略奪と安寧を有史以来5千年繰り返してきた。一番上の日本だけが全く国が変わらず1行真白だ。これが日本独特の文化、風土、民度を形成してきたのだと思う。
だから明治維新以降、西洋に追いつき追い越せと必死になってにわか仕立てで文明化しても、過去5千年のDNAを良くも悪くも引きずっている。1865年明治維新以降必死になって西洋化し、個人の自由・幸福を犠牲にして「他人に迷惑をかけない」「文句を言わない」「〇〇ねばならない」という風土のもとに合理的な社会を創ってきた。その典型が軍隊だったのだろう。
しかし明治維新後80年後の1945年敗戦でコテンパンに連合国から否定された。しかし軍隊生き残りの先人たち、その子供の団塊世代のおかげで戦後の高度成長の経済戦争で世界の覇権を一時は握った。高度成長期のシステム、企業組織、教育制度に、実は軍隊の面影を強く残している。
ポンポコ製菓顛末記を執筆するにあたり、ご紹介してきた当社の昭和ネタの原因を分析した。長所ももちろんあるが、6割が日本人の短所、それも風土の過剰意識であった。それは日本軍の組織風土を引きずった昭和のサラリーマンの短所そのものであった。
ミッドライフ・クライシス
人間の人生の資産で最も大切なものは経済的資産でも地位でもなく、良好な人間関係を構築するものと、ハーバード大学の調査は表している、しかし、今日本は「おひとり様」をビジネスとして奨励し、SNSの隆盛と相まってコミュニケーションから遠ざけている。ますます現実社会に対する耐性は弱まりフラストレーションはたまる一方だろう。
その多様性を認めず効率を重視する制度、風土が戦後80年経過した現代(2025頃)に曲がり角に来ている。「他人に都合よく(平気で)頼むことは考えないひと」は気付いていたがそうでない人もコロナ禍でまのあたりにした。
しかしどうすれば良いかの解、方向性はまだ見いだされない。
心理学者のユングは人間は40~50歳の中年期に自分の価値観や生き方を揺るがす大きな転換期が訪れると説いた。これをミッドライフ・クライシス(人生の正午)と呼び、これを乗り越えると成長し「自己実現」に結びついて、人生の価値観を変え、幸福感に繋がると言われている。
その一つの方向性に「ねばならない」という呪縛を解くことと、私は考える。
自分に対しては「迷惑をかけてはいけない」「我慢する」「上に頼る、人に頼る」から脱却する。他人に対しては「してはいけない」「許さない」「するべきだ」から脱却する。
それに、まず、自分も他人も「お互い様」「持ちつ持たれつ」ということに気付くということだ。
「『絶対的な正義』を探し求める人は被害者か加害者の二択で考えがちだが歴史においてそんなことはほとんどない。被害者と加害者が同じであることがほとんどだ」と歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは述べている。
世の中、そんなものなのである。
読者も、もし「幸福を何となく感じない」「自由な雰囲気が無い」「緊張感を強いられる」と感じていたら、中年期と言わず、早くミッドライフ・クライシスを迎え、従来の常識を超えた新たな生き方、幸福を掴んでほしい。
ちなみに、かく言う私も若いころは経済価値一辺倒の利己的な生き様であった。それがカネ・モノ以外の価値、利他の心を意識するようになったのは45~55歳ころである。それ以来穏やかな気持ちを感ずるようになった。と同時に10年、15年前に気付いていたらさぞ生き様も変わったであろうと後悔しきりである。
読者にはその轍を踏まないでほしいと願う次第だ。
先般、この思いを同じくする前文化庁長官に記事があった。次回ご紹介したい。