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【ポンポコ製菓顛末記】 #27 目的と目標
皆さんはSDGsということばをご存じであろう。国連が国際社会の課題解決のために掲げた持続可能な共通開発プロセス目標である。日本では経団連がとり上げたこともあり、ややイメージ先行のきらいがあるが、地球環境を守りながら個人や国の格差をなくすことを狙っている。そのために目標をもって経営、事業に取り組み、持続的成長を実現しようというものだ。
その目標の前には、実は目的、即ち『何のため』ということが大切だ。それがおろそかになっていることが現代は多すぎる。
秘密工場
前回、前々回と企画や投資におけるプランニングの大事さをお話しした。やりすぎ、やらなさすぎがオーバープランニング、プランニングレスとなってしまうのでそのバランスが肝要ということだ。それを見極めるには、そもそもの「目的」、「何のため?」に立ち返ることが大切。
そこを改めて真摯に振り返ると異なる意見でも冷静に考えられる。これはやりすぎ、不要だ、いやいや、足りない、もっと検討しよう、といった塩梅だ。ところが頭で解っても、納得しても、それを邪魔する邪悪な心がある。
それは 意地、プライド。これが極めてやっかいで、はたからみると、「何で?」「どうして、そんなことするの?」と頭をかしげることが多い。
当社は新規に主力工場を建設するにあたり、そこに工場見学ルートを盛り込むことに生産と広報部門で進めていた。食品会社のもっとも効果的なPRは工場見学で、旅行会社のツアーも組まれるほど人気だったからだ。
その設備を考慮して3階建ての工場棟を設計したが、当初のラフ案に対し5割増しの見積となってしまった。これに対し、社長・CFO(財務担当役員)は見積増ということで生産部門の提案に対し「待った」をかけた。特にCFOは低原価を達成するために生産以外の余計なコストをかけたくないと頑なになっていた。それて取締役会では差し戻しとなった。ところが、生産担当役員の専務は譲らず、3階に予定していた見学ルートは作らないが、3階建て工場は当初予定どおり建設する案で強引に決議してしまった。3階は使途不明のままだ。
おそらくゼネコンとの話は進めてしまっていたので、いまさら白紙差し戻しは出来なかったのであろう。そもそも取締役会まで肝心な話をせずに来てしまったこと(もともと役員同士は微妙に仲が悪い)も不思議だし、そのまま使途不明で決議することも問題なのだが、もっと問題は完成後である。
3階建てを建ててしまったにもかかわらず、生産担当専務と社長・CFOの両者は互いの主張を譲らないので、完成後の3階は使わずじまいで無用の長物となってしまった。東京近郊の旧主力工場の事務棟の二の舞である。地元の市からは新しい工場なので社会貢献の意味からも工事見学依頼を再三受けるのだが、それにも頑なに応じなかった。まるで秘密工場のようになってしまったのである。
見せられない理由があるのか、良からぬものを作っているのではないかという変な噂が地元で立ったかどうかは解らないが、互いのプライドと意地に固執して、一度決めたことを変えない愚かな判断、行動である。建ててしまったのであれば歩み寄って、設備を有効利用し活用すれば良い。地元への貢献も果たせ企業価値向上という、そもそもの目的を果たせるというのに。全く大人げない行動だ。
金づちしか持っていないとすべてが釘に見える
この手の意地の張り合い、そのためにもともと「何が目的なのか」を見失ってしまうことが往々にある。一度決めたことを頑なに通す、他の意見に耳を貸さない、というものだ。
「金づちしか持っていないと、すべてが釘に見える」という心理学者アブラハム・マズローの有名な格言がある。自分が持つ特定の手段に固執していると、世の中の問題全てをそれで解決できる、或いは、するように見てしまい、その結果却って結果を悪くすることになるというのだ。
それと同じように、ある言葉遣いの比重が自分の中で大きくなりすぎてしまうと、大抵のことをその言葉で理解・表現し、その考えに則って人や世界と関わることになる。それを、「言葉に乗っ取られる」というそうだ。日常でもこういった、「言葉に乗っ取られる」経験があちこちにある。「それってあなたの感想ですよね」などの論破につながるタイプの言葉を多用していると、他人の話を取るに足らないノイズとして扱い、黙らせることが習慣化してしまうそうだ。
最も顕著な例は中世のカソリック教会である。当時「知」の総本山であった教会は読み書きのできない庶民に教えを説いていた。とはいえ医学や科学の発展以前のことである。経験則は解っても当然ながら世の全てのことを知っているわけではない。しかし教会が知っていること、解っていることが世の全てであり、知らないこと、解らないことは取るに足らない重要なことではないと庶民を信じ込ませてきた。その扉を開けたのが科学の発展であり宗教改革であった。
#8で正義中毒の話をした。自らの正義を強く主張する、どこにでもいる「職場の困ったさん」のことだ。自分も他人も異なる正義、異なる正解を言っているだけだから、互いの主張をリスペクトして100点ではなくても合格点、着地点を見出せばよいのだ。世のため、人の為という、企業や自身の目的、存在意義に沿って解を見出す。
上記の主力工場の工場見学ルートについていえば、原価のコストダウンも正解、工場見学のPRも正解である。いきさつがあって既に建ててしまったのであれば、それを活用すべきであろう。意地をとおして工場見学をさせなくても、原価は下がらない、会社全体のコストからみれば、使わなければコストアップになってしまうのだ。
自分の考え、特定の手段に固執するというのは実に厄介だ。特に偉くなるとますます頑なになる御仁が多い。
死を前にしたスティーブ・ジョブスは述べていた。「自分が死と隣り合わせであることを忘れずにいること、恥や失敗、期待やプライドはすべて死を前にして消えてしまう。自分の心と直観に従う勇気をもって行動し生きるべき」と。
失敗やプライドなど死の前にしたら取るに足らない、だから自分の心と直観に自信を持とう、という意味であろう。
しかし「自分の心と直観で行動」した結果が「正義」からズレていたら問題である。次回はズレているとは微塵にも思わず、自らの主張押し通した悲劇をご紹介しよう。
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