「海のはじまり」第一話感想 「いちばん好きな花」との比較や責任について
「いちばん好きな花」が好きだったので生方美久脚本の「海のはじまり」を見ることに。
「いちばん好きな花」は人間関係がテーマだった。それぞれが抱える生きづらさは、「こうでないといけない」という規範の呪いのなから生まれていた。その呪いを解くために、それぞれが何かしらの決断をして、関係性が変わることで、居心地の良い場へたどり着く。
「海のはじまり」の映像的な美しさや音楽、言葉のひとつひとつに深い意味をもたせる演出は「いちばん好きな花」に近いと感じた。普段、まったくドラマをみないので、違うドラマでもこんなに似るものなのだなと驚く。
だけど、ユーモアを交えていた「いちばん好きな花」とは違い、「海のはじまり」はどこまでもシリアスだった。
共通するテーマは「決断」だか、そこに「責任」が重くのしかかる。
「選択」できないのに「決断」しなくてはいけない状況。「責任」があることで、悲劇や不幸に安易に同情することができず、視聴者は複雑な思いのまま宙吊りにされる。
「いちばん好きな花」では自分らしく生きることを抑圧していた規範を取り除くことで主人公たちは自由になった。
だが、ここではそれぞれが自分らしく生きていくことが不運の連鎖となっている。
そう思えば「いちばん好きな花」と「海のはじまり」は裏表の関係になっているのかも知れない。
「いちばん好きな花」がそうだったように、「海のはじまり」という言葉がラストまで物語の根底に流れるのだろう。
「はじまり」と「おわり」のない海。そこには決断の余地がない。知らぬまにはじまっている。終わることはなくどこまでも続く。「はじまり」は「おわり」であり、「おわり」は「はじまり」でもある。
カタルシスだけを求める脚本なら、優柔不断な人間が責任を取る覚悟で決断することで幸せを手にするストーリーになりそうだ。
だが、生方美久はそんなシンプルな物語にはしないのだろう。
現在の社会では失敗をした人間は「自己責任」の名のもとにどこまでも叩かれる。
旧約聖書ヨブ記では、誰よりも信心深いヨブが不運によって不幸な状況で陥ったとき、信仰心がないから不幸になるのだと責めたてられた。
どうしようもない状況のなか、その状況になったことだけで人は責められるべきなのか。その責任をどこまで追うべきなのか。それは遥か昔から人の生き方として問われている。
「海のはじまり」はきっと「自己責任」の呪いを解く物語になるのだろう。
責任感から父親としての役割を担うことについて。
恋人に対して責任を取ることについて。
自分のためではない人生。
他人のためではない人生。
大きな波に翻弄されながら、この物語はどこにたどり着くのだろう。第二話もみなければ。