【映画考察】『デューン 砂の惑星 PART2』はなぜこれほどまでに美しいのか。
★★★★★
あまりに美しい傑作。正直途中まではSFアクションというこの種のジャンル映画では史上最高なんじゃないかとまで思っていたほど。まさに映像がもつ絶対的なオーラ。この映画には崇拝し信仰したくなるほどの”映像美”が宿っている。
▶︎あらすじ
以下、ネタバレを含みます。
▶︎圧倒的なデザインの美学
『メッセージ』(2017)の「バカうけ」とも称された宇宙船を思い浮かべてもわかるが、ドゥニ・ヴィルヌーヴはシンプルなデザインがもつ“美しさ”と“恐ろしさ”を心の底から信じているのだろう。そのシンプルさは、色彩、造形、ロケ地などすべての演出において徹底されていて、だからこそ観客はその統一感に畏怖したくなるほどの美しさを見出すのではないか。
たとえば前作から続けて主人公ポールたちアトレイデス家の宿敵であるハルコンネン家は、基本的には全身を白く塗り黒の装飾に身を包んでいる。そしてそのデザイン美学がもっとも顕著に表現されたシーンとして、今回の見せ場の一つとなったハルコンネン家の決闘は、上の写真のとおり会場全体が白と黒のみで埋め尽くされ、それはもはやモノクロの世界。「なんでもできる」SFというジャンルだからこそ極限まで削ぎ落とし洗練されたデザインは本当に息を呑むほど美しい。そこでは「血」までもが色彩を奪われている。
あるいは、この「デューン」宇宙を陰で操ろうとする秘密結社ベネ・ゲセリットはその素顔すらも隠してしまうほど丈の長い”黒い服”で全身を覆い、外見上は各キャラクターに違いはなくほとんど記号化されているとさえ言える。
そしてこのモノクロのデザインこそが、ハルコンネン家とベネ・ゲセリットの存在を文字通り謎に包み、ある意味ではシンボルとしての恐怖を与えているのではないか。それはつまり、「砂」という色をもって描かれるデューンと対比せずにはいられないということでもある。その証拠に、ポールの母レディ・ジェシカがデューンで教母になった際には赤い衣装を着用し、その周囲の人々からもまたカラフルな印象を受ける。
「生命」を感じさせるデューンは色彩を与えられ、「死」を司るハルコンネン家やベネ・ゲセリットは色彩を奪われる。そこには「死の星」と称されるほどに過酷な砂の惑星にこそ「生きる活路」を見出す主人公ポールの希望が託されていて、その逆説にこそ、この物語がもつ叛逆のエネルギーが宿る。
そのほかにも、映画冒頭のハルコンネン家の軍隊がみせる崖を飛びあがる直立不動の姿勢(などの運動)や、ポールの母に「命の水」を飲ませる女性が着用する奇妙ではあるが単純な模様の仮面(といった小道具)、フレメンらが集うシエチ・タブールの宮殿と思しき建築物の内装(といったロケ地・セット)など、そのシンプルさゆえに“美しさ”と“恐ろしさ”を帯びているディテールは枚挙にいとまがない。
この映画で印象的な台詞があった。
のちに教母となる母がポールに言う言葉。
その言葉の通り、この映画には美しいものと恐ろしいものしかなかった。
▶︎”真っ只中”を体験させるアクション
この映画には「よく見えない」シーン(時間)が結構ある。例えばポールが初めてサンドワームに乗るシーン、あるいはハルコンネン家のラッバーンがフレメンへの攻撃に失敗して返り討ちにされるシーン。これらはいずれもデューンの代名詞である「砂」に画面が覆われてしまい、よく見えない。
そしてこうした演出こそが砂の惑星デューンで繰り広げられる嘘のないアクションであり、主人公ポールの苦闘やラッバーンが感じる不安を観客たちもまた同じように体験するように、ドゥニ・ヴィルヌーヴが仕掛けた最高の演出ではなかったか。視界が奪われているからこそ、彼らそして私たちは、聴覚を研ぎ澄ませ、触覚を敏感にするような錯覚のなかで、「未来」を予測する。それはまさに「アクションの真っ只中にある」という映画体験ではないか。
ポールがサンドワームに振り落とされそうになるとき、私たち観客もまた、どこか掴むところはないかと必死に探り、砂の壁にぶつかりそうになるときにはつい身を屈めたくなるのだ。それはまさに客観的な視点でアクションのスペクタクルを観ているからではなく、主観的な体験としてアクションの真っ只中にいるということだと、私は思う。
その「アクションの真っ只中にある」ということをとても明瞭に表現しているシーンがある。それはポールたちが最初に香料集積機を襲う場面だ。まず観客は、集積機の“脚”を障壁としてその“影”という安全地帯を求めるポールとチャニの心拍に同化する。砂の惑星において日陰はそもそも直射日光を避けるという意味で「命を守る場所」として定義されているので、それがここでは銃弾(しかも狙撃手は太陽の方向にいる)を避けるという意味での「命を守る場所」と重ねあわされている。
このシーンが見事なのはその次。ポールが“おとり”になることで、上空の狙撃手は銃口をその方向へと這わせる。カメラは狙撃手のスコープを通して上空からポールを捉える。しかし私たち観客はその背後でなにが起きているのかを知っている。つまり、チャニが狙撃手の乗るプロペラ機に銃弾を命中させているということを。
しかしこの映画ではその一連の「撃墜」をチャニの視点では描かない。ポールが走り出して以降、ずっと狙撃手の目線で描くことで、いつのまにかチャニが弾を放ちいつのまにかプロペラ機に着弾しているという、攻撃が「よく見えない」という状況を忠実に再現している。このときやはり本作は、私たち観客に狙撃手の目になることを要求しているし、狙撃手の立場としての「アクションの真っ只中にある」ということを体験させているのだ。映画館で最も鳥肌がたったシーンはここだ。
なるほどたしかに、いわゆる主観映像的な表現はこれまでにもたくさん生み出されてきたし、あるいは暗闇を利用した「見えない」アクションというのもよくある手法だ。ただそこには「砂」という物質的な感触がない。この「アクションの真っ只中にある」ということで絶対的に重要なのはそのザラつきであり、「見えない」のではなく「よく見えない」という身体への挑戦なのだ。
つまりその意味で、この映画から感じる「アクションの真っ只中にある」という体験(体感)は、砂の惑星デューンがその存在自体として要求し、かつ砂の惑星デューンだからこそ真に迫る映画表現だったのではないか。
▶︎音≒震動≒生命という関係
そしてその「アクションの真っ只中にある」という体験(体感)を極めて高い精度で屹立させている要因は、この映画の“音”にあることは間違いないだろう。
「デューン 砂の惑星」において最も重要な“音”はすなわち“振動”である。それはサンドワームという圧倒的な存在を呼ぶ音であり、そのことは「死を招く音(自分の足音でサンドワームがやってくる)」としても「命を救う音(どこかで鳴らされたタンパーによりサンドワームが遠ざかる)」としても描かれる。
つまりここに、
音≒振動≒生命という関係性がある。
だからこそ、天才ハンス・ジマーの音楽はどれも“響く”。奏でられるとか、鳴らされるとか、そういう”音楽”というよりは、”地響き”として”鼓動”として響く。それはまるで砂の惑星デューン自体の声のようでもあるし、その環境に直面したキャラクターたちのそして私たち観客の鼓動のようでもあるのだ。
そしてその極めつけとして、ハビエル・バルデムの声が響く。それはフレメンとして砂の惑星デューンとともに生きるものとして、あるいはスティルガーとしてポールを信じるものとしての「生命」に他ならない。そのハビエル・バルデムの声が谺して反響することで、ポールはフレメンのなかでムアディブ=ウスールとなり、リサーン・アル=ガイブとなる。
このPART2においてポールには二人の親がいた。一人は母親であるレディ・ジェシカ。彼女は「囁く」ことで人を支配する。もう一人はフレメンとしての父親であるスティルガー。彼は「響かせる」ことで人を導く。二つの“声”を持ち合わせるポールが、この先どういう人物へと変化していくのか。それを案ずるチャニのまなざしは、まさしく私たち観客のまなざしに他ならないだろう。
正直言うと、あまりに映像と音が素晴らしすぎて、物語は結構どうでもよくなってしまって、後半はかなり飽きた。
でも続編がとにかく楽しみなことは間違いない。