畦道で夏が呼ぶ
3ヶ月前、玄関を出たら雪の壁だった。白に白が重なって目がくらむほど、白。粉雪と氷の粒とが入り混ざったまっさらなそれを、金属のスコップでざくざくと除けた。
感覚では、ついこの前に立春が来たばかりだ。早朝にはコンクリートの水溜まりがぴしっと凍り、ぬくもった室内とは裏腹の証拠に窓が曇っていて、やがて大粒小粒の水滴になる。育てている植物に水をやるために外へ出れば、肌を刺すような冷たい空気に混ざる、ほわりとした新葉の青い香り。雪国の立春。
感覚を失うほどの分厚い手袋とどしんと重たいコートを羽織っては、「どう考えてもまだ冬だ」を、毎年思う。それなのに今、外がもう夏の気配を纏っている。
仕事のデスクに鋭く差す日差しで、吹奏楽部時代の先輩を思い出した。学業との両立で悩む私に「ロングトーンが綺麗だから絶対に辞めないほうがいい」と言ってくれた。合奏で思うようにいかず「そろそろ帰ります」と嘘をついて練習をしていたら、深く問わずに部室の外で待っていてくれた。
「使わなくて困るから貰ってよ」と譲ってくれたバスの回数券は、本当は余ってなどいなかったんだろうと今になって分かる。
何かと何かの狭間へ置かれているようなこんな日には、たくさんの思考が飛び交ってしかたない。仕事が行き詰まったので、息抜きにと外へ出た。
たまたま通りかかった服屋では、「大処分」と盛大に書かれたポップが貼ってあるワゴンに、冬服が放り込まれている。毛糸の帽子、ざっくり編みのセーター、裏地がボア仕様のボトム。ほんの少し前まで人気者で、多くの場で求められ、たくさん可愛がられていた品だ。
一見綺麗に畳まれているが、通常価格の上で「見切り品」の文字が踊るタグに赤いシールが貼られている。こういうものを見ると、勝手に切なくなる。
夕方になると人が集い出す近所の八百屋には、小ぶりの西瓜がおりこうに並び始めていた。味見だよ、と店のおばちゃんが楊枝に刺さった1片をくれて、でも果肉の端は赤みが届ききっていない。まだ甘くない、爽やかな初夏の味。
洗い物をしながらテレビで聞いた「そろそろ梅雨入りでしょう」というお天気お姉さんの声は当たっていて、昨日は雨が降った。八百屋を出て歩いた小花の咲く畦道には、その名残が見える。容赦なく差す日光。そこに、ひだまり。花びらや葉に乗る雨粒は可愛い。クレヨンの上に塗られてはじく絵の具のようだな、と見るたびに思う。
ネオンの夜にちょっぴり憧れる。「眠らない街」という言葉を聞くと、胸の奥の奥が少しだけへらりと浮く。性格的に暮らせない。分かりきっているのに、形のない憧れだけが熱く焼けて、綿毛のように飛んで、ネオンとは無縁の広い畦道にゆれる濃い緑へすっと消えていく。
「プロの作家とは、書くことをやめなかったアマチュアのことである」と言ったアメリカの作家 リチャード・バック。「進歩しないものはすたれ、退かず努力するものは必ず前進する」の言葉を残した福沢諭吉。その中にぽつりと混ざる、「毎日少しずつ。それがなかなかできねんだなあ」という相田みつをの言葉に笑ってしまった。とても分かる。
たゆまず継続する人は素晴らしい。不満を吐きながら道を拓く人も好き。積み重ねた先にもし「暮らせない」と決めつけた都会での暮らしがあったとしたら面白い。
早朝の起床が多くなった近ごろ、急須を新調して、以前にも増してお茶を飲むようになった。温かい飲み物は、心までほろほろと溶かす反面「温かいうちに飲み切らなくては」だ。季節の変わり目で揺れるあやふやな風みたいに、いつも何かに追われて生きている。心地良かったり悪かったり、毎日は忙しい。生きづらくって、楽しい。
外で顔を出していた丸い太陽は、家へ戻ると鉛のような雲に隠れていた。きっと今からまた降る。眠気覚ましに飲もうと帰りに買ってきたアイスカフェラテは、手に収まるくらいのカップと紙のストローで成り立っている。
季節が巡るたび、月日の短さを考える。初詣で多幸をゆっくり願うのに、幸せの数をなぞる前にあっという間に年の結びが来る。春と夏の間で今押し迫っているのは、溜まった原稿の納期と「ストローがふやける前に飲み切らなくては」。その両方に追われながら、もう手元まで来ている夏を想う。
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