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読書感想:「暴力の人類史(上)」を2022年に読んだ

今に至るまでちゃんと読んでいなかった理由

「分厚い。ちゃんと読む時間をとれそうにない」
「読んだ人と何人も話してしまっておおよそ本の主旨を分かった気になってしまっている。この状態で時間をかけて読むモチベーションが…」
「今さら買うにしては、かさばる。値段も高い。電子版…」

先日たまたま行った図書館で見つけたので借りました。延長しても3週間なので、その間に読めるだけ読んで下巻も(予約して)借りよう!
こういう制約がないと読めない本だな、と。

そして、このボリュームだと下巻を借りた後に上巻の内容を忘れてしまう可能性があるので、ここに上巻を読んだメモと感想をまとめます。基本的に自分のためにまとめているので、あまり読みやすいまとめにはなっていないと思われます。

では。
内容に入ります。

普通にネタバレなので、これからちゃんと読もうと思っている方はここでおしまいにしてください。



第1章 異国

1章から見たこの本全体の概観

人類前史からからローマ、初期キリスト教、中世、近代、アメリカ建国あたり、20世紀にかけての、暴力的な過去の歴史を「異国」を概観する体で見ていく。という意図で「異国」としているらしい。
欧州とアメリカが視点の中心にあるあたりが、この本の文化圏を示している。

この後の2,3,4章までかけて、暴力という言葉が示すのは「戦争」や個人間の日常的な暴力というよりも「虐殺」であり、かつそういった中や日常生活で見られた「残忍性」に着目している。

その点に着目したからこそ、戦争や死者数の数値を示してエビデンスを出していくことも重視しているが、この本でもっと重視視していると自分が感じたのは「人類が法と共感を得た」ということ。

そのプロセスをこの後の流れで説明する前段として、過去の「異国(異文化、全く異なる価値観)」の時代にどの程度の残虐性を人類が平均値として持っていたのかを語っていく。
「個々の生命にさしたる価値がなかった時代が人類史のほとんどだった」と考えると当たり前ではあるが、時代ごとにその通念の下地としてあった価値観や人の考え方を探っていくパートだと感じる。

では、都度都度感想を交えながら、内容を見ていきます。

人類前史(の犯罪)

1章「異国」の最初の見出しとして「人類前史」があり、そこでは5000年前の人間の遺体が氷河の中で発見されたエピソードから始まる。例によって(病気や老衰ではなく)殺人という方法で死んだ遺体の背景から暴力を見ていくのだが、この本の中では

彼は何者かに殺害されたのだ。(中略)犯罪の概要が明るみに出た。(中略)DNA鑑定の結果、(中略)外套には四人目の人物の血液が付着していることがわかった。

などと、現代の殺人事件のように描写される。

現代の価値観や手法からの視点と、当時の生活者の(泥沼の中のような)一歩先に死と排せつ物がある視点が入り乱れる。これはそういう本か、と1章を読み終わるまでに理解ができると思う。

(もう少し読んでいくと、どうしても全体の背景にアメリカ的な視点があるな、とも感じられる。著者も自覚を持って書いていると思われるので、この視点の存在は非常に分かりやすいと思う)

この「人類前史」のパートでは、数千年前に死んだのに氷漬けなど極めて保存状態がよい遺体が実は世界各地で発見されているが、それがことどとく殺害された遺体である事を説明している。拷問されたり、または生贄とされたり、と方法は色々とありそうだ。

ホメロスのギリシャ

次は古代ギリシャの、これもまた虐殺・略奪・(生きていれば)奴隷になることが日常だった古代世界の話。古代ギリシャが高度な知的文明を持っていたとはいえ戦争と奴隷制の上に成り立っていたことは、もう広く知られていることだと思う。

この後に聖書の中のジェノサイドの話があるが、まぁよくある話なので。怒りっぽい神様は強くて怖いよね、ということで。
ただ、テキストとして聖書は残ってしまったので、説法として使われる寓話に暴力が混在していて取り扱いに困ったり暴力パートを無視したり、と現代になって困ってるよね、という話もある。

この次は古代ローマの、主に残虐な処刑方法のエピソード。自分は中学生くらいの頃に(最近の異世界転生とかとは別物の)ゴリゴリの中世モデルの海外・国内小説を読んでいたので、残虐に処刑されるシーンはけっこうよく読んだ。(最近になって中国史の中での処刑や虐殺の本も読んでみたので上には上がいるな、とも感じている。日本平和だよな)

中世の騎士

ここは紹介しておきたいと思ったのが、まずはランスロットから始まる騎士の暴力。中世研究科のリチャード・カウパー(名前!)は13世紀に書かれた「ランスロット」の暴力シーンをカウントした話が出てくる。アーサー王伝説の当時ではなくランスロットなので中世のフランスということだろう。

数量化できる事例に限っていえば、少なくとも八つの頭蓋骨が割られ、…

とまぁたくさんの残虐な死の描写がある。そういう時代だったということだよな、と自分も古典小説を読みながら少年時代に思ったものだな、と思い出した。
本書でのここでの主旨は、騎士道などは幻想で実態は暴力に満ちていて、かつ騎士同士が戦って勝てば負けた方の持っている資産(主に女性)をどうしようが咎められなかった、それは今日の騎士道精神か?という話だ。

その後、中世の他の残虐性について、童話や日常的な暴力の話に言及される。
そして、この後にアメリカ史の中での暴力に言及されるが、この章以降の「名誉」のための暴力の前振りの様な感じ。さらに20世紀の暴力(大規模な戦争が含まれ始める)に言及されていく。

1970年代半ばに世界の非暴力化についてスピーチしたとしよう

1章の最後に出てくるのが、70年代にこれから実は世界が非暴力的になっていくことをスピーチしたとして誰も信じないだろうね、という例として架空のスピーチが語られる。

スピーチの内容はおおよそこんな感じだ。
2010年代になっても紛争がなくなることはないが、核の脅威におびえることはなくなるだろう。核兵器が敵国に使用されることはこの先一度もない。大国間の戦争もない。中国の軍事的脅威も消滅し、主要な貿易相手国になる!ソ連は崩壊し(中略)ソ連構成国は民主主義国家となる!中東でも(中略・中略・中略)イスラエルに関連する国家の抗争は減り和平交渉が進む。

ここが、この本を2022年に読み返した際のハイライトではないかと、読み終わってからやはり感じるのだ。この本「暴力の人類史」の日本語版が出たのは2015年。

この本の主旨「世界の非暴力化は確かに明確に間違いなく進んでいる」(が、2015年当時に思っていた道筋とはちょっと違う情勢に来ている)がすごく体現されていると思う。再暴力化も本書内では語れているし、決して手放しで喜べる未来像ではないが、それでも未来予測はやはり難しいし、アメリカ西欧が見落としていた側面が大きかったな、と感じる。

また少し話は脱線するが、2021年8月のハーバードビジネスレビューのテーマが「中国とどう向き合うか」だった。個人的にかなり衝撃的な内容だったのでよく覚えていて、80年代から2000年代にかけて中国の文化レベルがどんどん発達していく中で「中国もこのまま民主化するだろう」と欧米では常識的に考えていた(でもそうじゃないよ)という話。高度化=民主化(資本主義化であり西欧化 ※キリスト教的思考へ)という考えが、レヴィ・ストロースが出てきた後なのに依然として主流で当然のように西欧では考えられていて、今になってやっと「あいつら文明レベル上がっても民主化しないんじゃね?」と気付いている。という話が語られていた。これが2021年。現在の2022年が終わろうとしている現在ではすでにだいぶ見方が変わっていると思うが、これが2021年だった。今、民主主義の国は減り続けている。

第2章 平和化のプロセス

ホッブスの話から2章はスタートするが、冒頭は正直あんまり以降の内容と関係しない。

人類の祖先の暴力、と、狩猟採集民(非国家)の暴力

この2章は、単純には「国家がちゃんと存在すれば暴力は減る」という話。それをまずは、人以前としてチンパンジーから描写する。そしてその後に原初のヒトの暴力を見ていくのだが、全体としては、暴力は多→小(対等な力関係ではない)、強者→最弱者(拮抗したもの同士は戦わない。一方的な暴力行使が多い)の関係で基本的に徹底的に行われ痛めつけるというより相手を滅ぼすことを目的とする、と語られる。

現代の戦争と比べると、狩猟採集を中心とした部族間の抗争のほうが実害は少ないだろう、と感じてしまう。実際、そもそもの規模が小さいので死者は当然少ない。数回の先頭程度ではたいした犠牲も出ない。そのために見逃されてきた事実についてこの章では語る。

15年ほど前(2000年ということだろう)くらいからやっと、この非国家社会の部族間の原始的な戦闘での実害について検証に取り組み始められた、という話が紹介される。ここでの大きな問題として、二種類の暴力―戦闘襲撃―の区別が重要だと語られる。大量の死者を出すのは襲撃のほうで、敵対する部族に対して夜襲や男達の不在時をついた虐殺や略奪が行われる。女性や子供への虐殺も含めた描写(実際にそのシーンを目撃した西洋人や先住民自身の語りで語られる)があり、非常に生々しい。殺害方法も非常に残虐だ(ここには書けない)。これはテレビで見るような先住民のイメージと合わないだろうと思う。

戦闘の理由として最も多いのは「復讐」ということだ。だから、襲撃では復讐が起きないように徹底的に一人残らず殺す、ということ。先住民の部族間でね。たしかにそれなら連鎖はしないが…。

国家と非国家社会における暴力発生率

2章の後半は、死者数ではなく暴力の発生率(自分がある特定の時代に生きていたとしたら暴力の犠牲になる確率はどれくらいあるのか)を見ていく、という前置きからはじまる。

比較するのは、特定の場所に定住する国家のある側と、狩猟採集や狩猟採集耕作民の部族社会の二つであって、時代は問わない、というのが面白い。この二つを暴力で死んだ人の割合で比較する。結論から言えば、国家社会のほうが圧倒的に暴力による死者数の割合が少ない。国家からすれば国民を殺すインセンティブがないので当たり前ではある。だが、現代も存在する先住民族のイメージとその中での殺人での死亡率が高い事実はコンフリクトする。

非国家のグループを、現代の狩猟採集、現代の狩猟採集耕作型、古代の非国家遺跡、の三つに分けたとき、一番暴力による死亡率が高いのは現代の狩猟採集耕作型、という結果が紹介される。さらに、狩猟採集はそんなに人を殺すのか、そうでもない部族も存在する、という疑問や事実に対しては、そもそも現代まで存続している狩猟採集民は現代文明に社会から近年まで発見されなかった未開の(住みにくい)地に住んでいたわけで、他の部族との接触が少ないから暴力発生率も少ないのでは、という意見も出てくる。たしかにな、と思うし、そもそものこの章での数値も、すべからく全体を把握できた結果ではないので、単に真に受けるのは危険とは思う(傾向は示していると思うが)。

第3章 文明化のプロセス

冒頭は、テーブルマナーの話から始まる。著者には、ナイフを使って食べ物をフォークの上に載せてはならないというテーブルマナーはなんなんだ!という怒りがあったが、それが最近になって解決した、と。

日本人からすると、どう理解すべきか難しいところだ。
結論から言えば、昔のヨーロッパ人は皆短剣を懐に持っていて日常生活の中でも道具として使うし(動物を解体したり)日常生活で頻繁に発生する暴力や殺人でも使ってました。という話。中世の人は非常に衝動的で、自らをコントロールすることなく怒れば殴り刺したということだ。そこから、自己抑制という考えが発明されて「マナー」も生まれて現在につながる流れが書かれる。

ヨーロッパにおける殺人の減少

このパートの冒頭では、1章で少し触れた中世の騎士団が民衆を虐殺する様子が、当時の絵とともに紹介される。騎士団は領地を巡って争うが、騎士団同士では戦わず敵の領地の庶民を虐殺して相手の力を奪う。封建時代は国家が大した力をもっていないので騎士団のような軍閥が力をふるう。日本では戦国時代のようなものだろうか。戦国時代がずっと続いているとすると嫌だなぁと思う。

その後、民衆レベルでも殺人が日常的に発生していたことが語られる。急にナイフを抜き相手の体に突き入れる。ドイツの思想家、ノルドルト・エリアスの研究を成果に、この当時の人の直情的で隠すことのない感情が説明される。中世の人々は自制がなく不作法だったと。

自分の読書原体験でのこのあたりの描写は、『小説ドラゴンクエストⅣ』だと思う。未開の森の領地を巡っての争いの結果から殺人にいたり歓喜する民衆(人間)の悪逆な描写がある。これが、文明的な魔族(ピサロとロザリーの若かりし頃、ロザリーヒルズを人間が襲う場面の前だったと思う)との対比で語られたので非常に記憶に残っている。

話を戻すと、ここで初めてマナーという概念が生まれた。食欲のコントロール、すぐに満足を求めない、他人への配慮、田舎者の様な振る舞いを避ける、自らの獣性を出さない、、など。衛生観念につながる清潔感もこのあたりで芽生え始めたようだ。(日本はどうなんだろう、と気になるところ)

で、礼儀作法に話が移り、短剣で食事をしない、というマナーにつながる。

ここから、文明化のプロセスとして自制という内的衝動の抑制があったのではと言う。セルフコントロールはどの時代でも一定存在はするが調整をする意思を持ったのがこのくらいの時期ではないかとか、そいういう話だろうか。

このあとに、ゼロサムゲームからプラスサムゲームに至るなかで経済性という尺度の説明がある。略奪以外の方法で富を増やすには、分業と公益、経済関係での結びつきがあればよい。交易すれば皆儲かるからね。

暴力と階層

この後は、中世の殺人事件についてその背景を探る感じになる。まず、中世では殺人の発生率に身分差がないことが指摘される。だが、徐々に身分が高いものから殺人発生率が下がっていく。
下流階級には依然として殺人を何かの解決手段とする習わしが残るのだが、これを「自力救済(セルフヘルプ)」として紹介している。大部分の殺人事件はその階級社会の中での「死刑」であると(法に守られていないし法を知らないということだろう)。

低所得アフリカ系アメリカ人の例も出てくるのだが、これはよくあるやつだ。銃で人を殺して逮捕されたアフリカ系アメリカ人の青年男性の母親が「皆やっているのになんで自分の子だけ逮捕されるのか(もしくは警察に射殺されるのか)?」と怒っているシーンは、どこかで目にしたことがあると思う。暴力による報復や、そもそも犯罪が多い地域は警察機能が弱く誰も当てにしていない。そのため法律の信奉も低い。結果、セルフヘルプになる。

文明化で暴力が減っても、無くなるわけではなく社会経済的な底辺へと集められていったことが、まとめとして述べられる。

世界各地の暴力

この本の特徴だなと、まとめていて思うのは、論点が循環するところ。
この3章「文明化のプロセス」は特に流れが難解だ。

ここからは世界各地での殺人発生率から文明化による暴力の減少を見ていく?のかなというところから始まる。

各国の犯罪発生率が紹介されていき、非文明的な国は発生率が高く西欧やアジアでは低いという話が紹介されてまぁそうだろうな、となる。
文明化が植民地化によってもたらされること、としてその民族の独立によって再度非文明化が起きて殺人率が上がる、、は事実なんだろうが、臆面なく書けるのが欧米西欧だなと思う(日本もアジアで列強的振る舞いをしていたことは自覚したほうがいいが)。
特に、ニューギニアのエンガ族の暴力性と、オーストラリアによる支配後の暴力の減少、さらに独立後の再増加、そして自制的な暴力抑制に進む道筋はなかなか考えさせられるエピソードだと思う。

アメリカ合衆国における暴力

そして、アメリカにつながる。正直、これを書きたくてここまでつなげたのかな、と思える内容だった。

世界各地の暴力のパートで、先進国は一定して暴力の発生が低いとされるが、アメリカだけ例外だ。ここに迫る内容で、最終的に暴力の発生要因を解き明かそうとしてくる。

歴史的に警察機構が不足している土地柄だ、というのがある。流れものが作った国だ。このあたりは『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』を読んだほうがいいかもしれない。西部開拓の時代は、若い男性が犯罪を犯す、そこに常に酒がある、という流れと、さらにそこに若い女性(いわゆる西部劇で出てくるヒロインの女教師)によって、暴力的な活動が抑えられていくプロセスが語られる。

だが、非文明化も一方で起きて、それが連帯をもつベビーブーム世代とラジオという発明によるのでは、とされる。コントロールされた自己や役割に対する反乱的な感じだと思うが、正直この辺りは流し読みしたのであまり覚えていない。

その後のアメリカは1990年代に再文明化されたとのことだが、このへんもあまり深く読んでいない。ひとつの結論として、刑務所が増えて犯罪者が社会から減った、という身も蓋もない仮説(犯罪の厳罰化)が提示される。あとは「割れ窓理論」も出てくる。
最後はいろいろと仮説が出てくるが、最近のアメリカでは意図された再文明化が起きたのでは、となって終わっていく。このあたりは『犯罪心理学入門』で、アメリカの事例を取り入れる日本の話もセットで説明されていたと思う。いろいろと読書をしておくと知識がつながってよいなと感じる瞬間である。

第4章 人道主義革命

ここからは拷問や処刑の歴史の話になる。
この章の前半はの構造は、他の章と比べると比較的シンプルだ。

中世までの歴史では他人への拷問や処刑は娯楽だったが、それがいつの頃からか「同じ人間にすることか!?」という感情を呼び起こすようになった、という話だと理解した。その背景にあるのが、他社の経験や知識を共有する手段が出てきたということで、それは印刷技術、要は「本」ではないか、と。来たぞ、ぐーでんべるく!

4章の構成としては、迷信による殺人(の許容)という話で、まずは生贄、魔女狩りなどから始まり、その後に宗教的な殺人が紹介される。
そして残忍な処刑の方法と、それを楽しむ民衆という構図。人身売買や奴隷制の歴史も辿る。そして啓蒙主義へ話はうつっていく。うつっていくのだが、ぼんやりした内容であまり釈然としない。民族や国、フランス革命なども通して啓蒙主義(反啓蒙主義)を見ていくのだが、、。

第5章 長い平和

この本「暴力の人類史」上巻のメインかもしれない章だと思う。その割には読みにくいのだ…。

人類が古代から延々と争いを続けていた背景と、それが20世紀、戦後の時代に入り「長い平和」に向かうまで、向かった理由を必要以上に深掘りしていく章である。

まず20世紀は戦争の世紀と言われるがそうではなかったという話。
そして、主に欧州を中心とした中世からの戦争の歴史。思想の歴史。戦争の要因。国ができていくことで戦争回避に動き始めるが、フランス革命後にナポレオン戦争に入ってまた戦争が起きる、さらに次はイデオロギーの戦争に入って、ナショナリズム、戦争の美化、、から戦争抑止・反戦に向かう流れを延々と繰り返し説明する。最終的に、人は戦争が愚かだと昔から知っていたのに止められない歴史を歩んできた。それが20世紀に入って変わってきている。(経済的、思想的連帯が背景にあるのでは)というのが、この章ではないかと思う。
いちいちテーマがあちこちに派生するので本当に読みにくかった。

ということで、この章の中身をごく一部だけ紹介する。

20世紀は本当に最悪だったのか?

まずは、歴史のなかの戦争での死者数(そして人口に対する戦死者の割合)を見ていく。

この本で出てくる表の中でも印象深い、過去の戦争の死者数とそれを20世紀の人口に換算した人数の表、がある。二次大戦はたしかにたくさんの人が死んだが、それでももっと多くの層人口割合の人が死んだ戦争は過去にあったのだ(それも大量殺りく兵器もない時代なので手で殺している)。という話。大量殺りくのリストの中には、戦争以外の要素、奴隷貿易もあるしヨシフ・スターリンという個人名もある。もちろん毛沢東もある。

歴史上トップの死者を発生させているのは中国唐時代の話で、これはまぁたくさん死んでいるんだろうな、とは思うが中国は数を盛りに盛る傾向があるので分からないな、思った。こういった描写がこの本の西欧っぽいところでもあると感じる。

その後、歴史が進むにつれて戦争回避の思考が強まっていくことが様々な数値から語られる(正直このあたりは読み飛ばした)。

第5章 新しい平和

率直に言って、新しい戦争、が正しいタイトルではないかと思う。

全体として見れば、大きな戦争は無くなった。第三次世界大戦は起きていない。核戦争も起きていないし、ソ連も西に侵攻しなかった。

それにしては、平和に対する悲観論ばかりが目立つ。楽観視してもよいのではないか?と書いている。
そして、戦争のタイプが変わった話に入る。

大国や欧州以外の地域における戦争の推移

大規模な戦争は無くなりつつあるが、内戦は流れとしては増えてる。ただし、内戦は内戦なので多くの死者を出さない。内戦での死者は増えていない。という話。

どこかの章で前述したが、植民地政府が去って行って独立した国で、うまいこと統治ができず、警察機構が動かずセルフヘルプが必要となり、いずれ独裁に近い状態となる。権力を握れなかった層は内乱を起こす。特に資源がある国だと奪い合いになるので、内戦発生率が高い。しんどい結果である。

完全に民主的でもなく独裁でもない無能な政府として「アノクラシー」という概念が紹介される。満足な統治ができない政府のことで、民主主義国に比べても、独裁国家に比べても内戦の発生率が高いそうだ。これ、最近のスリランカではないだろうか。

こういった国のニュースが日々目に入るので悲観的になるが、もっと過去と比べれば国家内での争いによって人が死ぬ数は大きく減っている、と書かれている。まぁ、そりゃそうだろう。

ジェノサイドの推移

新しい平和という賞タイトルからどうして虐殺の話になるのかと思ったが、自分には分からなかった。とにかく、ジェノサイドの説明が始まる。

一人残らずどこかのグループの人々を殺し尽くす、というのがおそらくジェノサイドで、そこでは相手に人間性を認めなかったり、単に復讐を恐れての全滅だったり、と様々に理由はあるようだ。

まずは、人間が生来持つ「カテゴリー化(分類)」という機能から、俺たちとやつら、という枠組みで集団の争いへ変化していく。
それともう一つの要素はイデオロギーだそうだ。宗教、ナショナリズム、ナチズム、文化人の粛清など。ユートピアを建設するために邪魔なカテゴリーは絶滅させる、という方向性なのだが。シンプル過ぎてよく分からない。

道徳観という言葉もここではよく出てきて、何が道徳なのか分からなかったが、例えば商業活動・金儲けに対する道徳的な嫌悪があり、そこに連なる(かもしれない)文化水準の高い人を殺りくした文化大革命やポル・ポト、という説明ができるようだ。

テロリズムの推移

テロ組織は基本的に滅亡していく。という話。

天使も踏むのを恐れるところ

上巻の最後は、テロリズムからの流れでイスラム文化圏が暴力の減少に寄与していないという話を入り口としている。

宗教と国家の分離ができなかったことを指摘する。
他に、過激なイスラムとは別の大部分のイスラム教徒の思想が紹介され、テロは嫌悪し、民主主義国家化は否定する、という結果が示される。そうだろうな、と思う。

上巻のまとめ

正直、微妙なところで上巻が終わる。
ここでやっと、実際にリスクはあるということは示唆される(そしてリスク認識は非常にアメリカ的な視点だ)。ただし、同時に反人道的イデオロギーが衰退しているという現実も示す。希望を持とう、というところだ。

感想

色々考えさせられるところはある。人(生物)は思慮や理性を持たないと暴力的。それが自然体だが、今はもう次のステップに進んでいる。と言いたいのかなと。植民、奴隷、近代の戦争を起こした側の西欧が思想面でも先走ってこの結論に辿り着こうとしているのは、たしかにそうだろうと思うし、お前ら…とも思う。後編にも期待。

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