『最後にして最初のアイドル』は問答無用
古月みかが大人気アイドルになったのは、ファンのおかげだ。
特に、デビュー当初からのファンである新園眞織の功績は並々ならぬものがある。
彼女は、まだ光ヶ丘高校アイドル部のいち部員にすぎなかった古月みかの才能を見出して以来、その活動を献身的に支えてきた。
古月みかが所属事務所の倒産によって活動休止の憂き目にあった時も、新園眞織は諦めなかった。
新園眞織は、持てる限りの知識、技術、資産、時間、労力を尽くして、古月みかの活動再開を応援した。古月みかの復活に生涯を捧げたと言っても過言ではない。
古月みかは必ずステージに戻ってくると信じ、三十年ものあいだ待ち続けたのだ。
そのひたむきな心が、古月みかを再び表舞台へと導いた。
〈第二世代アイドル〉として再デビューを果たした古月みかは、当初拠点としていた秋葉原から、地球、太陽系、銀河系、外宇宙、そして多宇宙へとファン層を広げた。その後の精力的な活動については、改めて語るまでもない。今や押しも押されもせぬ大人気アイドルへと成長したのだ。
一方、新園眞織は、その華々しい成功を目にすることなくこの世を去った。
古月みかの活動再開を快く思わない過激派アンチ集団の襲撃により、命を落としたのである。新園眞織は、身を賭して古月みかを魔の手から守り抜いた。
最高のファンにして、最高のプロデューサーだった新園眞織。
アイドル・古月みかの類まれなる活動遍歴からみれば、新園眞織と二人三脚で過ごした日々は非常に短いものだったと言わざるを得ないが、新園眞織がいなければ今日の古月みかは存在しなかっただろう。
新園眞織は、今も古月みかの心の中で生き続けている。
これは比喩ではなく、真実である。
新園眞織は生きている。
なぜ断言するのか?
よく聞け。よく読め。いまここに、その答えを記す。
新園眞織は、自らの脳の一部を古月みかに移植した。
新園眞織は、古月みかの脳の中に存在し続けている。
新園眞織は、古月みかと自己同一化を果たしたのだ。
ファンとアイドルの同一化。
これに勝る幸福があるだろうか。
ファンはアイドルを応援することに生きがいを感じ、アイドルはファンの応援によって励まされる。
つまり、自分が存在する目的は自分であり、自分は自分の存在によって自己肯定感を得ることができる。
ファンとアイドルが一心同体になれば、それはもう精神的な永久機関だ。
新園眞織は、古月みかの実存に基盤を与えた。古月みかはついに、自分が存在する理由を与えるものを自らのうちへと取り込んだのだ。
アイドルを支えるのはファンの言葉だ。
古月みかが宇宙を巡るツアーの最終日に思い出したのも、新園眞織の言葉だった。
アイドルに求められているのは完璧なダンスでも歌でもないの。下手でもいいから努力する姿なのよ、観客はそれに自分を重ね合わせて共感するの。
アイドルに必要なのは努力だ。その他には何も必要ない。自分について悩む必要もない。自分のしていることが正しいか正しくないかなど考える必要もない。
なぜなら、ファンにとってアイドルとは無謬の存在なのだから。
惑星の百個や千個破壊したとしても、また明日から頑張ればよい。
この小説には、折々に異常なまでのポジティブ思考が紛れ込む。
古月みかはもともと虚勢を張る傾向があるが、それにつけてもこの全能感、自己肯定感は不自然にも思える。
私は、その感覚こそが新園眞織から古月みかへの応援だと考える。
新園眞織は古月みかの脳の一部となって思考し続けている。あなたは可愛い、可愛い、頑張れ、頑張れ! と。
秋葉原を飛び出した古月みかが、地球、太陽系、銀河系、外宇宙、そして多宇宙へと驀進する原動力は、新園眞織の応援だったのだ。
古月みかが大人気アイドルになったのは、新園眞織のおかげだ。
この小説は、新園眞織という一人の少女がアイドルを応援し続ける物語である。
◆
草野原々の書く文章って、なぜか野太いおじさんの声で脳内再生される。
一度そう思っちゃうと、もう古月みか(CV:玄田哲章)と新園眞織(CV:神谷明)にしか聞こえない。
ポプテピピックのBパート現象。
草野原々とポプテピピックのファン層ってだいたい同じじゃないだろうか。
ブラックユーモアに大喜びして、とんでも設定とかカオスな展開に置いてけぼりにされるのもたまらない人種。
あとがきに書かれているとおり、私もまた「悪いオタク」だ。
たとえば、かわいい女の子で満載のアニメの中に、何かしらつっこみどころを見つけた瞬間彼らのスイッチは入る。だって可能性感じたんだ、そうだすすめと、彼らは嬉々としてそれを自身の専門に引き寄せて理屈づけようとし、決まって悪趣味でグロテスクな方向に拡大していく。
もうこの分析で心をぶっ刺される。
私も、悪趣味でグロテスクな方向ばかり向いてしまう。
でもそれは、特殊性癖を満たすのが目的なわけじゃなくて、単純に痛気持ちいいのが好きなのだと思う。
たとえば、整体師に痛くしてもらったあと、身体がすっきりするみたいな感じだろうか。薬も苦いほうが効くような気がする。
それと同じで、ご利益のある苦痛だと分かっているから嬉しい。
ストーリーがしんどいほど、その先に大きなカタルシスが待っているように思える。
苦痛は嫌いだけど、耐えれば耐えるほどその先の快楽が大きくなることを知ってしまった結果、自ら苦痛を求めるようになる。
それが「悪いオタク」の発生要因だと思うのですが、他の人はどうなんだろう。
あ、フィクションの話ですよ。
自分や周囲の人に嫌なことが降りかかるのは普通に嫌です。
私は悪属性のオタクですけど、感性はいたって普通です。
でもインターネット人格としての草野原々は普通じゃないと思う。