『にんげんのくに』に吹く風
熱帯雨林で狩猟採集をなりわいとする、裸同然の「人間」たち。
異人の血を引く子として疎まれていた少年は、しだいに「人間」たちの不条理な暴力の文化に溶け込みながら成長していく。
『伊藤計劃トリビュート』の収録作品の中で最もかっこいいと思ったのが、仁木稔「にんげんのくに」だ。
まえがきによれば、この作品集のテーマ設定は
「テクノロジーが人間をどう変えていくか」という問いを内包したSF
だという。
たしかに他の収録作品は、ドローン、仮想現実、ナノテク、分子ガストロノミー、情報化社会、高度医療、AIといった、いわば今話題のテクノロジーを取り扱っている。
しかし、この「にんげんのくに」には、テクノロジーどころか政治も文字も貨幣も存在しない。
この作品だけはテクノロジーを描いていない。
描かれているのは文明を失った人間の姿だ。
よく考えてみれば、私は、この先もテクノロジーが進歩するはずだと根拠も無く信じている。
そもそも、本書のテーマである「テクノロジーが人間をどう変えていくか」というテーマ自体も、テクノロジーとは前進するものであるという前提に立っているように思う。
だからこそ多くのSF小説が描く未来は、今よりずっとハイテクになっているのだろう。
しかし、人間がテクノロジーを失ってただの裸の生き物に退行する可能性だって、少なからず存在するはずだ。
そういう未来を想像するのを避けているだけで。
ただ、私たちは、テクノロジーの進歩を疑いもしない一方で、テクノロジーがもたらす変化については常に戸惑いを抱いているのではないか。
たとえば、私は「リモートワーク」「web会議」という言葉を発するとき、どこか揶揄するような気持ちを抱いていることに気付く。
朝から晩までパソコンとスマホを触っているにも関わらず、私はテクノロジーによって日常を変容させられることに怯えている。
テクノロジーに対するぼんやりとした不安を抱いているのは、おそらく私だけではないだろう。
だからこそ多くのSF小説は、人間がテクノロジーに支配され、自滅する未来を描いているのだろう。
私はテクノロジーについて批判的な視線を向ける作品も好きだし、説得力も感じるけれど、テクノロジーを捨てる覚悟は全く無い。
一方、文明崩壊後の世界を描いたSF作品も多く存在する。
たとえば、私はブライアン・オールディス『地球の長い午後』を思い出す。
この作品の中では、地球上の自然環境と生態系が激変し、人間は小さく退化している。
これは太陽が赤色巨星と化した数億年後の未来を描いた物語だが、同時に人類の過去の再現でもある。
文明を失った人類は、再び気候変動と捕食者に怯える小さな哺乳類に退行したのだ。
そして「にんげんのくに」も、未来の話でありながら過去の語でもある。
あとがきにあるとおり、物語中の「人間族」は南米のヤノマミ族をモデルとしている。
私は、軽い気持ちで履修した文化人類学でテキストを買わされたことがあるので、うっすらとその名前を憶えていた。
講義では、ヤノマミ族とは狩猟採集を中心とした生活を送っており、男性優位の社会構造を持つという切り口で教わった(ような気がする)。
だからこそ、仁木稔のあとがきは衝撃だった。
その伝統文化だが、実はせいぜい十九世紀後半までしか遡れないという。
つまり、ヤノマミ族は「原始人」ではない。
また、
彼らは元来、漂白の民ではなかったようだ。白人による奴隷狩りと疫病で人口が激減し、文化も失って離散した農耕民が、細々と生き延びてきたものらしい。
とある。
ヤノマミ族は、ある時点までは農耕をなりわいとしていながら、狩猟採集の生活を送らざるを得なくなったようなのだ。
アマゾンの他の部族についても、その伝統文化は原始時代そのままに連綿と受け継がれてきたと信じられているが、やはり退行の結果である可能性が小さくない。
つまり、どんな集団も条件次第で人間*になり得るということだ。
(*引用者注:ヤノマミ)
私は「文明は狩猟採集→農耕→工業という順番で展開していく」と習ったような気がするが、どうやらそれは必ずしも一方通行ではなかったらしい。
「文明は常に前進する」というとらえ方は、大まかに見ればいまだに有効なのかもしれないが、局所的には当てはまらない事例もあるということなのだろう。
その例外が、もし自分だったら――と想像するのは、とても恐ろしいことだ。
ヤノマミ族が農耕を続けられなくなったように、私たちだっていつかインターネットやスマホやパソコンを失い、食料を求めて密林を走り回らなければならないかもしれない。
そういう「退行した未来」には、カタルシスは感じられない。
たぶん私たちは、隕石が降ってきて滅亡するとか、文明が発展しすぎて自滅するような物語にはある種の救いを見出せるが、二度目の原始時代なんて想像したくないのだ。
しかし、カタルシスが無いからといってつまらないと判断するのはもったいない。
私は、仁木稔の「カタルシスの無い暴力」の描き方が好きで好きでたまらない。
私がエンターテイメントとしての暴力、すなわちカタルシスを伴う暴力を書く一方で、カタルシス抜きの暴力をも書くのは、「他者の苦しみの商業的利用」への罪悪感からだと思っていただいて構わない。
「カタルシスの無い暴力」の後味は、授業で戦争映画を見せられたあとの気まずさに似ている。
フィクションとして消化できない苦い気持ちを、私はなぜか嫌いになれない。
見た直後はやっぱり心が痛むし、嫌な気分にもなるのだけど、最終的には「見なきゃよかった」という憤りは消えてしまう。
この世に「救われない物語」が存在することを知っているだけで、それは自分を守る盾になる。
私は、自分が弱者であり、何らかの加害者でもあり、不条理の中にいることを実感したときにこそ「カタルシスの無い物語」を思い出す。
私は、その救われなさに共感しているわけではない。
共感できない理不尽な暴力をただ傍観しているうちに、何となく私の中でいろいろなことに整理がついていくのだ。
……うーん。
でもこれは結局、カタルシスを得ているということになるのか……?
まあ、そんな小理屈は抜きにして、仁木稔の描く暴力は野蛮で、美しくなくて、とってもいい。
文化人類学の要素を取り入れたSF小説が、しばしば外部の研究者の視点からの一方的な異文化観察に終始してしまうのに対し、「にんげんのくに」は異文化の当事者の目線で描かれている。
ヤノマミ族という実際の集団をモデルとして、文化人類学の諸研究を読み込んで書かれた作品だが、いわゆる「学術研究を噛み砕いて記述し直した かっこいい論文風小説」になってはいない。
そういうところが本当にかっこいいんだ~~!
実は『伊藤計劃トリビュート』を最初に読んだのは一昨年のことで、その間ずっと感想を書いたり消したりしていた。
今回もやっぱりとっちらかってしまったし、言いたいことを言い尽くせていないけど、いったん公開してしまおうと思う。
私は次の街に行く。