毎日Noteを始めて1ヶ月
価値観の違いを越えていきたい
ついにこの日がやってきました。1ヶ月前の今日「とにかく書いてみる」という記事をアップしてからなんとかここまで来られました。毎度言っていますが、読んでくれた方ありがとうございます。飽きっぽい自分がNoteを続けられたのは、みなさんのおかげだと思っています。
そんな記念すべき今日は、言葉について書きます。これはいつか伝えたくてずっとあたためてきたので、良い記事になると思います。是非最後まで読んでください。
僕は数年前政治に興味を持ちました。しかし沢山演説を聞きに行ったり、ニュースを追ったりする中である疑問を持つようになりました。それは同時期にクラスのホームルーム等話し合いの場で覚えていた違和感と、重なります。
その疑問とは「価値観が違う人が分かり合う事は可能なのか」というものです。人は何かの思想を生まれ持つ訳ではありませんが、生まれた後にその環境から色々な考え方を得て、価値観や思想を形成していきます。親の影響を大きく受ける事が多いです。
そうやって形成された価値観は、味の好みから、政治への考え方まで様々ですが、かなり確固たる物になっていきます。それぞれの価値観に従って生きるから、その人らしさが出るのでしょう。ただ、世の中には決めなくてはいけない事が沢山存在します。
家族、学校、会社、何かを話し合って決める機会は無数にあるのです。毎回一つの答えを出さなくてはいけませんが、前述のように価値観や考え方は人それぞれなので、本当に難しい作業になります。
さらに政治となると、トランプ政権下のアメリカやEU諸国の移民排斥等、価値観の違いが大きな分断を生むことがあります。互いに自分が正しいと信じこみ、相手を叩き合うのです。日本においては、日常生活でも意見の相違自体が避けるべき物のように扱われ、しっかりとした議論が敬遠される傾向にあるという印象を受けます。
そんな事を考えながら少し前に「三島由紀夫vs東大全共闘」というドキュメンタリー映画を観ました。1960年代に日本の大学において始まった左翼的な学生運動の団体である全共闘に対して、右翼的な思想で有名だった三島由紀夫(以下三島、敬称略)。ご存知の通り全共闘はヘルメットと棍棒で武装して校舎にたてこもり、火炎瓶で警察を攻撃する超過激集団です。
三島も私設軍隊である楯の会を結成し、翌年には自衛隊の基地に乗り込んで切腹してしまう武闘派。そんな両者が、全共闘の誘いから討論をする事になりました。思想信条では自分たちの真逆にいると思われていた三島に対して、ボコボコにしてやると意気込んだ1000人以上の学生が駆け付けます。
しかしそこで三島は、武力ではなく言葉で1000人を説得しようと試みるのです。対する登壇した全共闘の代表らも言葉で応戦します。観衆も徐々に引き込まれていき、壇上では両者がタバコをシェアし、しまいには代表が敵である三島を「三島先生」と呼んでしまう等、互いの立場を越えリスペクトし合う関係になるのです。
後に全共闘の論客だった芥氏は当時を振り返って「言葉が力を持っていた最後の時代」と言います。それを聞いて、僕はハッとしました。冒頭に書いた価値観が違う人が分かり合うのは、可能なのです。言葉によって可能になるという表現が正しいかもしれません。
ただそれは、言葉を鍛錬した者のみが到達できる領域でしょう。三島は世界的に評価された小説家ですし、全共闘のメンバーも難解な哲学書を読み漁っていた人たちです。そこまで言葉と接したからこそ、価値観というものを越えて分かり合えたのだと思いました。
以前は僕も言語化には否定的でした。言語化できない気持ちなんて沢山あるし、言葉にする事で安っぽくなってしまう時もあります。そのせいか、内に秘める、あえて言わないという姿勢が美徳とされる風潮があるのも事実です。
でも、夢を実現するには言葉が必要なのです。面接では何か話さなくてはいけません。協力者や応援してくれる人は、自分の夢を分かりやすく言語化できない限り現れません。一人でこもって作品を完成させたとしても、それを世に広めるには言葉が必要です。最初は安っぽい表現しかできなくても、言語化を続けなければいけないと僕は思います。
コロナウイルスによる外出自粛期間では、原則人と会うことができません。それでも思いを言語化する、言葉をつかえるようになるために毎日Noteを書いたり、ラジオを配信したりと伝える練習をしてきました。
言葉の力を信じて、価値観の壁を越えるために、と言ったら大袈裟ですが、今後も言葉を使って色々な事をしていきたいです。その上で今回のNote毎日投稿は物凄く貴重な経験となっています。
一応、大学のオンライン授業が始まる5月11日までは毎日投稿をしていきますので、これからもよろしくお願いします(それ以降は未定)。スキ、感想、共有等してくれると嬉しいです。