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黒沢清監督「Chime」

新宿シネマカリテで「Chime」(黒沢清監督)
2回目。
ずっと緊張を強いられる45分。

さて、以下は映画の感想ではなく、映画を観た後になんとなく思ったこと。

× × × × × ×

自分にとって、なんだかすごく癇に障る人っているじゃないですか。
人には相性ってやつがありますから、そういう人もいます。
なんかわからないけど、言うことなすこと何故か気に入らない、って人。
そんな人と二人きり、あたりには誰もいない静かな部屋の中で相対しているとしましょう。
相変わらずその人の言うことなすことが癇に触る。
もう本当にいらいらさせられる。
どうにも不愉快である、と。
で、たまたまあなたのすぐそばに包丁が置いてあったとします。
そしてその相手がちょっとだけあなたに背中を向けた、としましょう。
その時に、手元にある包丁でこいつの背中をグサッと刺したい、と思ったりはしないですかね。
しないですか。
そうですか。
それは素晴らしい。
偉いです。
ぼくだったら、チラッと思ってしまうんじゃないかと思います。
ま、実行には移しませんけど。

それをチラッと思ってしまった時に、何故実行に移さないのか。

まずは「人を殺してはいけない」「人を傷つけてはいけない」という倫理的な理由が有りますよね。
あとはもうちょっと利己的な、それをやってしまったらこの後メンドクサイことになるから、とか、警察に捕まるから、とか、そんな理由もあるでしょう。
そういう諸々の理由で、その一線を越えることはしない。

でも、そのラインを越えること、一歩踏み出すことって、案外簡単なんじゃないかな。
「一線を越える」なんて言い方をしてしまったから「越える」とか「踏み出す」なんていう能動的なニュアンスが出てしまったけど、実際にはそんなアクションさえ必要ないのかもしれない。
一線とかラインとかってもの自体、そもそも存在しないのかもしれない。
ただ「ああ、」って感じで手元の包丁を手に取って、思い切り振り下ろす、それだけ。
そういうことをする自分と、チラッと思っても実行に移さない自分との間にはどのくらいの隔たりがあるんだろう。
隔たりなんてあるんだろうか?

× × × × × ×

「Chime」の冒頭に、「頭の中でチャイムみたいな音が聞こえる」と言う青年が出てきます。
自分の頭の中が半分機械と取り替えられてしまっている、なんてことも言う。
そしてその後、恐ろしいことをするのですが、この青年、確かに気味が悪いけれども「Chime」を見終わって思い返して見ると、この青年はあんまり怖くないんですね。
「妄想にとらわれる病気の人」というふうに認識できるから、そう説明がつけられるからある意味そこまで怖くない。
それよりもその後に起こること(それが先の青年と関係が有るのか無いのかよくわからないのですが)、あまりはっきりとした説明がつけられないようなことが色々起こり、それが怖い。
冒頭の青年は「一線を越えてしまった存在」として認識できるけれど、その後に起こる出来事は「一線なんて無いのでは?」という感じで起こるので、それが怖い。

怖い映画でした。

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