自作解説 中貝勇一「世界」について
1.はじめに
高見の記事も更新せずにすみません。年度末でなくてもいつでも師走、中貝勇一です。
さて、ようやく着手いたしました。自作解説の記事です。今回ご紹介するのは、「世界」という詩です。
これは、「うたのま」という合唱事業を手がける団体のために書き下ろしたものです。つい最近、さる3月12日(土)に「うたのま~アマチュアの饗宴~」が行われ、その最後の合同合唱曲として作曲されたもののテキストが「世界」となります。
私自身、合唱の歌い手でもあるのですが、その立場からすれば、テクストの解釈よりも楽譜に書かれていることの解釈が優先されるべきだと考えています。
ですが、実際、詩人が何を考えていたのかを知った上で、作曲者がテクストのどこに注目して音像を作ったのか、はたまた歌い手や聞き手が何を考えたのか、その異同を知るのもまた面白いと思うのですよね。何を考えて書かれたのか。そして、作者である私にとっては逆に「自分が考えもしなかったことを解釈された」ことも知れたらいいなと思っています。そのきっかけとしてこの記事を執筆しました。
2.テクストと曲についての雑感
2-1.詩の本文
2-2.岡田知理作曲 無伴奏混声合唱のための『世界』(うたのまで演奏されたもの)
Vocalize(lu lu lu とか lo lo lo とか)が印象的ですね。特に、”lo lo lo”は作曲した岡田さん曰く、泡を表現しているのだとか。なるほど・・・・・・。
また、女声と男性、6声が呼応したり、ぴったり重なったりするところがこの曲の「うま味」だと思います。
「ただ空が底抜けに明るい日にも」と「冷たく無数の雨が降る日にも」の温度感といいますか、質感もしっかり表わされているところも好きです。
ラストの部分は、「それを繰り返すだろう」のresolute(リゾリュート:決然と)感が涙腺を緩ませ、ラストで涙がダバダバでるという仕組みになっているのではないかと考えています←
2-3.Oga-P作曲 女声合唱とピアノのための『世界』(なんともう一曲作ってもらっていました!)
実はもう一曲ありました。先ほどの曲を書いてくださった岡田さんも、この曲を書いてくださったOga-Pさんも、仮面作曲会(リンク先は第2回仮面作曲会の様子です)というイベントで知り合いました。縁って本当に素敵。
Oga-P作品は他にもYoutubeにあがっていますが、もれなくどの曲もエモい。いとあはれ&おかし。まず、ピアノがおしゃれ。(下村陽子感をいつも感じるのですよね。鍵の形した剣を振るう主人公が出てくるあのゲームとかを思い出します。)女声合唱で4部という形式はそんなに多くないと思うのですけれど(女声合唱は3部であることが多い)、4部だからこその厚みがたまらないです。そしてどのパートにも主旋律が与えられていますし、Vocalise(この曲でいうとahの部分)もlegato(レガート:なめらかに)に歌われます。声にならない想いも見事に表現されています。エモさの塊。
あと詩書きとして曲を聴くときに注目するのは、どういうことばがどのようにして出てくるのか、あるいは繰り返されるのかです。私は、作曲の際にはテクストの省略も順序を変えることも全然構いません。むしろ、どのようにテクストと音楽が組み合わさっているのか、あるいはどのように再構築されているのかに興味関心があります。特に「祈ろう」が下2声で繰り返されているところとかが好きです。
3.うたのまでの挨拶文 ~詩作の経緯~
うたのまの代表で、作曲者でもある岡田さんからの委嘱を受けて、この詩を書きました。その経緯は、うたのまの演奏会にて読んでいただきました私の挨拶文に綴りました。中途半端にウケを狙おうとして寒い文章に仕上がっています(苦笑)
(ちなみにこの記事を執筆している途中に、うたのまの演奏会の音源が手元に届きました。ステージ頭の紹介もその音源に入っていたのですが、そこでは以下の挨拶文全てが読まれていませんでした。私としては、たいへんホッとしています。)
4.早速、本題。
4-1.コンセプトは詩だけでも音楽だけでもない ~創作を見つめ直す~
3節でもあげたとおり、この詩は2つのテーマをもとにして書き下ろしました。「離れていても、創作はつながる」ということと、「場所を超えても、どこにいてもなお私たちは文学・絵・音楽・芸術を愛する」ということの2つです。コロナ禍のさなか、私たちの行動は制限せざるを得なくなり、気軽に歌うことも、舞台・映画館・美術館・イベントに足を運ぶこともできなくなりました。そのなかで合唱をする人たちをつなぐ、心が通じ合う「間」として生まれたのが「うたのま」という事業なのだろうと私は解釈しました。
岡田さんは、合唱のイベントを主として据えつつ、その視野は広く、文学や音楽だけではなく芸術全般に向いていました。だからこそ、「創作とは何か」ということを大きく捉えていかねばならない、というところから「しさく」(詩作ともいうし思索ともいう)がはじまりました。
創作というのを私は「主体的に生みだすもの」とは考えていません。創作は、ふとしたきっかけがあって、それを受け取ったときに何かしかの形に残しておきたいと思うところからはじまります。この作りたいという情動がいわゆるポエジーというやつなのでしょうが、ポエジーは自分で自在に起こせるものではありません。能動的というよりどこか受動的なところから創造というのは起こってくるのではないでしょうか。(もっと厳密に言えば、「中動態」といった方がいいと思っています。この中動態についてはまだまだ不勉強なので深くは突っ込みません。)
とある景色や誰かのしたことに感化されてポエジーが生まれる。つまり、他者によって創作ははじまる。こうした創作の能動的ではない部分にフォーカスしたかったという意識があったからこそ、この作品では「私」ではなく、「あなた」や「わたしたち」を主語にしました。
しかも、そのポエジーとの遭遇はいきなり起こりますし、なんならポエジーに気づかないこともあります。手慰みの落書きや、ふと歌った鼻歌なんかも、広く捉えれば芸術のその範囲に触れています。私たちは気づいていなくても何らかの表現をしていながら生きています。喋ることだって表現です。だから、絵を描く、彫刻する、歌う、という芸術に直接関係のある動作だけでなく、第3連では創作・表現・芸術の意味合いを拡張させて、「生きること」全般と結びつけています。
4-2.真実はいつも1つではない 〜人の数だけ世界はある〜
ある日、雑談として(いや教科書の評論の内容がわかりやすくなるための布石ではあったのですけれどね)、私は教壇の上に立つ私はこんなことを口走りました。
「私からすれば某・名探偵くんは嘘つきなんです。“真実はいつも1つ”といっていますが、彼が推理しているのは、犯人の犯行のトリックであり、事実がどうであったかということです。真実を推理はしていません。ここで私が真実と呼びたいのは、犯人が『こいつが〜ということで憎かったんだ!』という供述の方です。犯人の犯行動機とか捉え方が私やこの文章でいうところの真実です。」
すまん、江戸川。別にお前が嫌いとかそういう訳ではないんだ。
……と少し脱線しましたが、何が伝えたいかというと、何の気もなしに表現・創作をしてしまっている私たちそれぞれはそれぞれの捉え方をしているということなのです。また、この記事の冒頭でも触れた通り、私自身の解釈と作曲者の解釈と受け手の解釈とは全く一致していませんし、その差異を楽しむのが一興という旨のことを書きました。それぞれが違う捉え方をする、すなわちそれぞれの異なった真実を持っているからこそ、創作は面白いのです。
そして、その真実同士は呼応することがあります。誰かの見方に共感したり、はたまた反発したりしながら、自分自身の捉え方や考え方が形成されていきます。見聞きしたもの、自分が今まで考えてきたこと、それらは互いに影響しあい、今の自分を作っているからこそ、「その全てを/両手ですくって/また新しく/世界が生まれゆくのを/祈ろう。」と表現しました。私にとってこの詩の「世界」とは、作品の中にある世界という意味でもあり、この現実世界のことでもあり、もっといえば私たちひとりひとりの真実・認識でもあるのです。
4−3.句点と言い切りの形の問題 〜世界は生まれ続けるからこそ〜
楽曲になる前提で書く場合でも私は「詩単体で読んでもおもしろい」をモットーにかいているつもりです。そして、このようにして意識的に創作をするのであれば、ソフトとハードの2つの側面を常にしっかりと考えないといけないのではないかと私は考えています。
いわゆる思想というかソフトの面は、以上に書いたことをベースにしています。文学で言うところのハードは文体やことば・文字選びに相当します。
では、この詩のハード面ではどのような工夫を施したのでしょうか。
明確な意思をもって仕掛けたのは、文末表現です。「泡のように」生まれた世界を「。」(句点)で表現しています。しかし、先に述べた通り、世界は、絶えず他の世界に干渉したり、別の形でまた生まれ直ったりしています。よって、さまざまな影響を与えあって次々に「世界」が生まれ続けているからこそ、言い切りの形を避けているのであって、だから「世界が生まれ。」「世界をつくり。」という一見すると違和感のある表現を採用しています。「祈ろう。」「繰り返すだろう。」も、意志や推量表現、つまり「これから」に対することばになっていますし、ここに「。」がつくのは、そこから生み出される世界に「祈り」や「いのち」が宿っていることを暗に示しているつもりであったからです。
5.終わりに 〜わたしたちが通い合うことを忘れないために〜
創作や表現は、その根っこを掘り起こせば、必ず他者と繋がっています。そして、互いが互いの世界・真実を認め合って、生きることを楽しむのが理想だと考えています。この作品も多くの人との繋がりのもと、生まれ、読まれ、歌われましたて。私は今まさに理想に近い営みをこの創作を通して味わえています。さらに、この作品をきっかけにしてまた新しい縁が生まれ、私の世界もアップデートされていくということを考えるととてもワクワクします。
とてもいい創作の機会を得られました。委嘱してくださった岡田さんをはじめ、この詩を読んでくださった皆様、またこの記事を読んでくださった皆様に感謝をすると共に、今後も引き続き「通い合」えることを願って末筆にしたいと思います。
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