自分だけの小さなデコボコ道を歩くことを決めた人間機械の話
2018年11月上旬の日曜日、トレイルランニングのレースに参加した。トレランとは登山道を走るマラソンのようなもので、アップダウンの激しい小さなデコボコ道をひたすら駆けめぐる競技だ。
2014年の秋からレースに参加するようになり、春と秋の年2回のペースでエントリーしている。
自然の中に身を置く時間を増やせば、新たな発見があるかもしれないと初めたトレランだったが、変化の兆しが訪れることもなく、ただ時間だけが過ぎていた。
ふと気が付くと、レースに出る度にタイムや順位にこだわるようになり、夜の街を10キロ以上走ることが日課になった。
そして挑んだ秋のトレランレース。
スタートから攻めた作戦が裏目に出て、後半のバテ方が今まで以上に激しかった。
レースが終わってトイレの洗面器で顔を洗うと、鏡に映った自分の表情を見て急に老け込んだように感じた。
いつものことだが、レースが終わって数日は歩くことが苦痛になるほど筋肉痛に悩まされる。筋肉痛はやがて心地良い刺激に変わり、スッキリした気分に変化するのだが、今回はいつまでたっても不快感が払拭されない。
ふと頭に浮かんだのが2ヶ月前に受けた健康診断の結果だった。診断の通知票には大腸内視鏡検査を受ける必要があると書かれていた。
内視鏡検査を受けるべきか?、それとも無視するか?、心の葛藤に悩んだ結果、ようやく覚悟を決めた。
初めての内視鏡検査。お尻の穴から小さなカメラを入れられ、苦痛に耐えながらモニターに映し出された自分の腸の内部を見ていた。
「もうすぐ終わりですよ」と言われ、内心ホッとした次の瞬間、富士山の噴火口のような奇妙な形をした腫瘍がモニターに写っていた。
内視鏡では削除できない大きさなので組織だけを採取した。すぐにCT検査が追加され、他の場所に転移がないか調べることになり、採取した腫瘍の組織は検査に回された。
家族にどう説明すればいいのか考えながら帰り道をフラフラ歩いていると、
朝から何も食べていないことに気がついた。
ガンに関する知識がまったくない。必死になって情報を集めると、末期ガンから奇跡の復活を遂げた人たちの物語が少なからず存在することが分かった。
僅かな希望を見出そうと、更に奇跡の情報を求めてパソコンのキーボードを叩き続ける。
2018年11月下旬、検査結果を聞きに病院へ行く。
担当医からステージ2の直腸ガンであると宣告され、外科手術を受けて腫瘍を除去する必要があると言われた。
手術を回避するために納得のいく情報を求めて必死になって走り回ったが、奇跡の復活を自分に当てはめることはできなかった。
2018年12月下旬に手術が決まる。
初めて入る手術室。台に寝かされ背中に注射を打たれ、左手の甲に貼ってあったテープをはがして、そこに太い点滴の針が刺さる。
仰向けになりマスクがかかると、そのまま意識を失った。
夢は見なかった。
名前を呼ばれて目を覚ます。何か質問をされたが、答えようと思っても声が出ない。喋ることができない恐怖が頭をよぎったが、しばらくすると喉の痺れが解消されて声が出た。
手術中は強制的に酸素が送られて、一時的に喉が麻痺していたようだ。
手術時間は4時間を超えていた。直腸の真ん中あたりから大腸を含めて20センチ以上も切ったことを知らされる。腫瘍の位置がもう少し下だったら、人工肛門になっていたと脅かされた。
手術台から別のベッドに移されHCU室に運ばれた。担当の看護士さんは小柄な若い女性で、慣れた手つきで着替えさせてくれた。
痛みはそれほど感じないが、衰弱していて動くことができない。身体をふいてもらっているときに、アスリートっぽいと言われて、つい先月山道を22キロ走ったことを自慢げに話してしまった。
夜の担当は若くて感じのいい男性の看護士さんだった。外はこの冬一番の寒さで、ようやく趣味のスノーボードができそうだとニッコリ笑っていたのが印象に残っている。痛みを感じないのは、背中に刺さった管から薬が入っているからだと説明してくれた。
奇妙な夢を見た。仕事場の付近をスーパーマンのような姿勢で、ゆっくり飛んでいる。現場で働く人たちは、みんな疲れた表情をしている。目の前の扉を開けると複数の人が倒れていた。そのひとりに声をかけたら同じ部屋で働いている設計士だった。
夢から覚めて周囲の気配を探るが、まだ夜中だ。いろいろな考えが浮かんで眠ることができなくなってしまった。
ゆっくり呼吸を繰り返してみたものの、息が乱れて苦しくなり、不安とイライラと恐れが頭の中を支配していた。
とても長い夜だったことを今でも鮮明に覚えている。
気持ちを切り替えて食べ物のことを考えたら少し楽になり、大根おろしソバが食べたくなった。食欲が有ることが分かると少し安心した。
いつの間にか寝ていた。目が覚めると昨日の女性看護士さんが身体をふいてくれて、オムツも変えてくれた。
少し歩いてみないかと提案されたが、衰弱していてそんな気分になれない。
でもアスリートとしてはノーと言えなくて、ゆっくりと起き上がって付き添われて歩いた。
現在の医学では寝たきりの状態が続くと回復が遅れてしまうので、手術後の早い段階で起き上がることが推奨されている。
2019年元旦の午前中に最後の点滴を済ませて昼から流動食に切り替わる。
手の甲に刺さったままの点滴の針を抜いてもらうとスッキリした。
身体は順調に回復している。普通の食事が食べられるようになると、どうしてこんなことになってしまったのか?、という疑問が湧いてきた。
社会という巨大な装置を動かす人間機械として生きるべきか?、それとも自分の頭で考えて行動できる人間を目指すのか?、そんなことをずっと長い間、考え続けてきたような気がする。
基本的な生き方の選択が定まっていないことが原因で、身体のリズムが狂ってしまったのかもしれない。
カバンの中にヘミングウェイの「老人と海」を入れておいたことを思い出した。何度も読んだことがある本だ。本を読み終えると少し勇気が出た。
他にやることがなくなったので病棟の廊下を歩いた。お世話になった看護士さんの近くを通過する度に、この人たちのことも、この病室のことも、窓から見えた風景のことも、いずれは忘れてしまうのだろう。なんて寂しいことを考えながら歩いていた。
そして1月上旬に退院が決まった。
無理をすれば仕事に復帰できそうな感じがしていた。でも入院前から自宅療養という名目で、しばらく仕事を休むことに決めていた。
休んでいる期間は歩く距離を少しずつ伸ばし、坂道を歩き回って体力の回復に努めた。
1月下旬から仕事に復帰したが、しばらくの間は17時で仕事を切り上げた。
仕事が終わったら近所の坂道を歩き回っていた。
長時間労働から短時間労働へとワークスタイルをシフトさせて、小さな目標に向かって動き出していた。
3月中旬に軽く走った。これならいけそうだと思った。
手術後3ヶ月診断の時に、5月のトレランレースにエントリーすることを担当医に相談すると、絶対に無理はしないように言われた。
4月中旬に山に入って7キロ歩いた。5月の連休は神社の石段を登った。
海が見える平坦な国道沿いを12キロゆっくり走った。
あとはレースまで坂道を歩いて調整する作戦だ。
はたしてこれだけの練習量で18.5キロの登山コースを制限時間内に完走できるのか?、という疑問も出てきたが、昨年もこのコースを完走している。
あとはなるようになるだろうと気楽に考えることにした。
レース当日、山の朝の空気は涼しかったが、午後からの気温は今年一番の暑さになりそうだ。今年の春もスタート地点に立つことができたが実感はまだ湧いてこない。
定刻10時にスタートの合図が鳴り、予定通り最後方からゆっくりと走り出した。タイムも順位も無視して、ひたすらスローペースを貫けばどんなレースを体験できるのか?
スタート地点の標高が800メートル。少し平坦な道を走ると、あとはひたすら登るだけ。最初の山頂が4キロ地点。そこから少し下ってまた登ると次の山の頂上に到達する。
いつの間にか日差しが強くなっていた。第1給水ポイントで紙コップに入ったスポーツドリンクを2杯飲んだ。
また下って登ると頂上に出る。そこが第2給水ポイント。スポーツドリンク2杯とイチゴを手づかみで食べる。
次の標高1264メートルの山頂から見渡す景色が素晴らしい。360°のパノラマが広がっている。
昨年のレースの時は景色もろくに見ないでタイムを気にして坂を下って行ったが、今回は目の前の壮大な眺めを十分に楽しむことにした。
もうすぐ10キロポイント。この地点で2時間30分を超えると失格となってしまうが、まだ時間的には余裕がある。
最後の山頂で景色を眺めながら一息ついた。第3給水ポイントで水分を補給すると、ここから下りが続く。
足が相当疲れている。気を引き締めて慎重に下ったつもりだったが、木の根っこに足を取られてバランスを崩した。
リカバリーできずに転倒。その瞬間足が攣った。しまったと思ったが遅かった。めちゃくちゃ痛かったが、足をさすりながら前に進んだ。
起き上がってからは立ち止まることもなく、18.5キロの山道を3時間20分でゴールした。昨年よりも40分遅い。でもはるかに充実した時間を過ごすことができた。
トイレの洗面器で顔を洗った。鏡に写った表情はスッキリしていた。
タイムや順位を気にして、がむしゃらに走っていた時は自然を感じることもなかった。今回は最後までスローペースを貫いた。風の声が聞こえたような気がした。
帰りの高速道路を移動中に、あることに思い当たった。「長時間労働→大量生産→大量消費」という大きな流れに長い間、身を任せていたので、今までの人生を機械のように自動運転で生きていた、ということだ。
安定した生活を維持することは大切だと思う。でもそれ以上に大切なことに気がついた。それは自分で自分の人生の主導権を握る、ということだ。
もうこれ以上、人生の無駄使いはやめよう。ため息ばかりの生活を終わらそう。その先に自分だけの小さなデコボコ道があるはずだ。
そんなことを考えながら、帰りの高速道路をゆっくりと移動していた。