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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑
〔第8回〕
折口信夫
■10代で才能が開花
折口信夫(おりくちしのぶ)は明治20年2月11日、大阪府西成郡木津村(現、大阪市浪速区)に生まれる。生家は戦災で焼失してしまい、今は残っていない。
小学校時代から、古典をはじめ広い分野の文学に親しんだ。天王寺中学時代には校友会誌「桃陰」に「都賀野の牡鹿」という作品を発表したり、「文庫」「新小説」といった文芸誌に投稿した短歌が入選したりするなど、早くから奇才ぶりを発揮している。
一人旅で鳥坐神社を訪れた13歳の夏、9歳上の僧侶・藤無染(ふじむぜん)と出会う。これが折口の初恋とする説がある。
後に折口が詩人・歌人として号した「釈迢空(しゃくちょうくう)」は、無染につけられた愛称に由来しているともいわれているのだ。
■藤無染との同居と別れ
明治38年に中学を卒業した折口は、一旦は第三高等学校へ進路を決めるが、出願の前日に取りやめて新設の國學院大學の予科に入って上京する。同時に藤無染との同居生活も始まる。
ところが2年後、無染が結婚したために同居は解消された。さらにその2年後には無染が30歳という若さで病死したため、永遠の別れをも経験するのである。
さて、ここまで読まれた読者の皆さんは、無染が女性、すなわち尼僧だと思われたのではないだろうか。藤無染は男性である。あの時代に尼僧が結婚することに疑問を抱いたので、調べてみた。その結果、男性だと分かって筆者自身も驚いた。
明治40年に予科を修了して本科国文科に進んだ信夫は、短歌に興味をもち始めて、根岸短歌会などに出入りするようになった。
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■教員と作家の二足のワラジ
大学を卒業後は今宮中学校(現、今宮高校)の教員になるが、4年後に退職して再び上京している。折口を慕って追いかけてきた生徒たちの面倒を見るために、借金がかさんだという。
大正10年に國學院大學の教授となり、2年後には慶応義塾大学の講師も兼任する。そして昭和7年「万葉集に関する研究」で文学博士となり、国文学の世界に「折口学」と呼ばれる独自の学風を展開することになる。
一方、作家としても精力的に活動していた。「海やまのあいだ」「春のことぶれ」「倭をぐな」などの歌集を出版し、古語を駆使しながら日本語の美しさを表現している。ほかに詩集「古代感愛集」「近代悲傷集」、小説「死者の書」を出版。とりわけ「死者の書」は折口学の集大成とも評される。
このように歌人としても「アララギ」の同人として作品を発表したり選歌欄を担当したりしていた。やがて作風の違いからアララギを脱退すると、北原白秋らと「反アララギ派」を結成して「日光」を創刊するなど、公私ともに多忙な生活を送っていたようだ。
昭和28年に箱根を旅行した頃から健康状態がすぐれず、衰弱が進んだ。同年8月31日に慶應義塾大学病院に入院するも、3日後に息を引き取った。胃がんだった。
●折口信夫文学碑:アクセス/地下鉄御堂筋線または四つ橋線「大国町」駅下車、2番出口から徒歩6分。浪速区敷津西1丁目鴎町公園内