【那辺】という言葉について
以前、「那辺《なへん》」という単語を
というふうに使用したら、読んだ方から「辞書で調べたら『不定称の指示代名詞。どのあたり。どのへん。どこ。』とあり、この使い方は不適当では」とのコメントをいただいたことがありました。
その時は、「『那辺』は遠称の指示代名詞で使われている例もあるので、この使い方で問題ない」とお返事したのですが、実はこの意味が載っている辞書は少なくて、誤用だと思われるのも仕方がないことかもしれません。
というわけなので、ここに幾つか遠称の指示代名詞として使われた例をまとめておくことにしました。
以下、文字強調は引用者が追加したものです。
まずは、『太平記』巻第三十二 272 直冬上洛事付鬼丸鬼切事 より。
※「那辺這辺」は「かなたこなた」と読むようです。
次に、『裸虫抄』牧野信一 より。
※「那辺」は「奈辺」とも書きます。
『文士としての兆民先生』幸徳秋水 より。
次の例は、対馬の歴史や民俗をまとめた日髙博嚴さんのウェブサイト「対馬全カタログ」の、西津屋という村落のページからの抜粋です。
私の手元にある辞書では、三省堂「漢字海」第二版に、遠称の指示代名詞の記載があります。
コトバンクで調べると『精選版 日本国語大辞典』には以下のように記されていました。
「不定の場所を示す語」の例で「どのあたり」「どこ」が挙げられていますが、これらの単語は疑問文で使用される印象が強く、この記事の冒頭で取り上げた「この使い方は不適当では」というコメントも、それゆえのものだと思います。それこそ機械的に「那辺」を「どこ」に置き換えたら、「ふんわりと どこ へ吸い込まれてゆく。」なんて崩壊した日本語が出来上がってしまうわけですし。
しかし。
続けて「日本では、明治期などに多用され、主として抽象的な場所や位置をいうのに使う。」とあるのを見れば、「那辺」に置き換えるべきなのは「どこ」ではなく「どこか」なのではないでしょうか。
先に引用した『裸虫抄』の「混沌の奈辺へでも吹き飛んだか」など、まさにこの「抽象的な場所や位置」を指し示していると思います。前述の拙文も「ふんわりと どこか へ吸い込まれてゆく。」で、きちんと意味が通りますし。
遠称――つまり、ここではない。
不定称――つまり、どこでもない。
不定称でもありながら遠称でもある指示代名詞【那辺】、私はこの単語に、「ここではない、どこか遠く」という気配を感じてやまないのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?