天女魚(下)
「よーし、みんな起きろーっ! バーベキュー始めるぞ」
仲間の一人の大声でみんな一斉に動き出した。
僕も我に返り、みんなの後を追って庭へ出た。
二人づつ火を炊くチームと食材の下ごしらえをするチームに別れ、作業を始める。
僕が玉ねぎを切っていると缶ビールを渡された。
「はえーな」と言う僕に、「こんな開放された場所で呑まずにはいられないでしょ」と作業の相棒が答えた。
山で日が遮られ辺りが暗くなってきている。
スマホで時間を確認するとまだ午後4時をまわったばかりだ。
クーラーボックスから、持参した肉を出して焼く。他のみんなは缶のハイボールを飲み始め早くもご機嫌だ。
僕は缶ビールをちびちびと啜りながら焼く係りに徹した。
〈夜って何時頃の事だろう?〉
アマコとの待ち合わせ場所に行く気なのか自分でもまだ迷っている。
〈そもそも彼女は本気で誘ったのか。本気なら時間くらい伝えるだろうに〉
「おい、肉が焦げるぞ」
ぼーっと考え事をしてしまっていた。
アマゴの内臓を取り、鉄串を口から刺して遠火で焼く。
芳ばしい香りが鼻先をかすめて空に舞い上がってゆく。
「いただきます」
手を合わせてから背中にかぶりついた。
先程まで生きていた命をいただくのだ、少し神妙な面もちにもなる。
他の三人は麦焼酎をロックで飲み始める。
僕は薄い水割りにしてもらう。
空を見上げるといつの間にか空まで暗くなっており、既に星が瞬いている。
用意した酒が無くなりかけ、ジャンケンで負けた者が近くのコンビニまで酒を買いに行く事になった。
運良く自分が負けたので、車でコンビニまで買い出しに出掛けた。
頼まれた赤ワインを2本とビーフジャーキーを買って戻る。
買い忘れた物があると言って再び車に乗り込むと、僕はそのままアマコに会いに名所の滝まで向かった。
買い物に出た間に気持ちは決まっていた。
会えないのならそれはそれでいい。会いに行かずに、もやもやを抱えている方が気持ち悪かった。
酒を少し飲んではいたが、頭はすっきりとしている。
やがて、名所の滝の案内板がハイビームのライトに照らされた。
エンジンを切って車から降りる。
完全な暗闇に包まれ、恐怖を感じる。
静寂の中で滝の水面を打つ音だけが響き渡る。
僕は持参したランタンの灯りを点け、滝に降りる階段を目指した。足元に気をつけながら階段を進み、川辺に辿り着いた。
アマコの姿は見えない。
売店の方も見て、居なければ皆の所に戻ろうと考えていると、滝の音とは別の水を弾く音が聞こえてきた。
ランタンの光を広範囲に広げ、その水音がする方に視線を集中する。
滝の水が落ちる脇で何かが浮かんでいるように見える。
影はゆっくりと水面を揺らしながら近付いてくる。
滝の手前まで移動してくると、そこの辺りだけ青い月灯りに照らされていた。
突然、水面から影が跳ねた。
一瞬、大きな魚かと思ったが、それは人の形をしていた。
色彩も認識できた。
苔のような緑と月灯りに照らされた青白い肌。
それは尚もこちらに近付いてくる。
優雅にゆっくりと。
これはアマコなのだろう、と意識の中では解っていた。
しかし、それとは別に違うものを見ているような気持ちも抑えられずにいた。
浅瀬まで辿り着くと、それは立ち上がった。
やはりアマコではあったが、アマコではない。
緑色は素肌に羽織った布だった。その薄い布からは皮膚の色が透けて見える。
青い月灯りに照らされたアマコはまるで天女のようだった。
その美しさに声を出せずにいると、アマコの方から話しかけてきた。
「ゴン、来てくれたのね」
僕は頷く。
「あなたなら必ず来てくれると思った」
アマコは僕の前まで近付く。
丈の長いワンピースがアマコの白い肌にぴったりと張り付き、小さな胸の丘や腰の膨らみがはっきりと見えて、僕は咄嗟に視線を反らした。
「また会えて良かった」
彼女は恥ずかしがりもせずにそう言うと、僕に抱きついた。
自分の服も濡れてしまうが嫌な気はしなかった。だから僕も彼女の背中に手をまわす。
アマコは僕の首の後ろに両手をまわして少し屈ませるようにすると、唇を重ねてきた。
僕は目を閉じるのも忘れ、ただただ驚いている。濡れたままの彼女からは清んだ川の匂いがした。
暫くしてからアマコは僕の体から離れる。
「服を着替えなきゃ、ゴンの服もびちょびちょになっちゃったね、ごめんね」
と、小さく笑った。
アマコはすたすたと売店の方へ向かう。
僕もランタンを片手に彼女のあとを追う。
売店のベンチに彼女の荷物が置いてあり、アマコはそこからタオルを手に取って濡れた髪を拭き始めた。
「ちょっとそっち向いててくれる?」
僕はごめんと謝り、滝の方を向いた。
見えない滝を見つめながら、先程までの光景を再生する。
後ろで濡れた布が木の床に落ちる音がした。
「こんな時期に泳いだら寒いでしょ」
想像しないために話しかける。
「うーん、そうね、今はとっても寒い。でも不思議と泳いでる間は寒さを感じないのよ、特異体質なのかな私」
「特異体質って、そんなもんなのかな」
とんちんかんな返ししか出てこない。
アマコが着替え終わるとふたりで階段を上がった。
自動販売機で温かいミルクティーを2つ買って車に乗り込み、エンジンをかけて暖房をいれた。
車の中でアマコはミルクティーのペットボトルを両手で挟みながら、時折僕に質問を交えつつ大学生活について語った。
まるでさっきまでの事は何もなかったかのように、普通の同い年の女の子そのものの話し方だった。
彼女の頬は体から発せられる熱でピンクに染まっている。
「じゃあそろそろ帰るね」
アマコはミルクティーの最後の一口を飲み終えると助手席のドアを開け、あっさりと帰って行った。
残された僕は呆けたように思考を巡らせるが、納得のいく答えなどみつからずに諦めて車を出した。
「あの売店のコに会ってたんだろ?」
僕が戻ると、酔っ払った仲間達から冷やかされた。
僕はごまかしながら風呂場に逃げる。
風呂から出ると都合のいい事に彼らはもう寝ていた。
僕も布団に入り、耳に残った滝の音を聴きながら眠りについた。
次の日、車で名所の滝の前を通ると、運転している友達が「彼女に会っていかなくていいのか?」と僕に訊ねた。
「寄らなくていいよ」と、僕は返した。
何故なら昨晩、階段を上がる途中で彼女と約束したから。
「もう私達は会うことはないの。だから明日もここには寄らないでね」
そう言って、アマコは繋いだ手をそっと離したのだったから。
❮おわり❯