#5 ”可能性”に足元をすくわれないために
人生100年時代の、まだ早朝にあたる20代半ばでさえ、心のふとした間隙に入り込み、ずしんと重くぶら下がる後悔は、すでにいくつもある。
実に緩慢な25余年の生にでさえ、遂に和解できずに別れたかつての友人や、あの場であえて言わなければよかった言葉等々、じっくりと思い返せばじわりじわりと浮かんでくる場面は枚挙にいとまない。
ただ、それらの後悔が、「本格的に身体を蝕みはじめる」までには、おそらくもう少し、あと十数余年ぐらいの猶予は残されているだろうとも思っている。
「過去は変えられない、だが未来は変えられる。」
10代の貴重な貴重な青春がとうに失われたとはいえ、20代に用意された時間はまだまだ長い。挽回のチャンスはいくらでもあるのだから、今は後悔に縛られる必要なんてないのだと、多くの金言がまだ若い私たちを励ましている。
しかし一方で、そのような未来に向けた可能性にこそ、割り切れない不安を抱えてしまう心持ちもまた、当然に発生すると思う。
なぜならば、可能性とは言ってしまえば、将来の後悔の芽となり得る最たる期待であるからだ。
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可能性はあくまで可能性であって、たとえ本人が強く望んでいたとしても、着実に履行されていくわけではない。あえて大人になることを待たずとも自覚することではあるが、願望を現実のものとするためには、取り巻く外界に対してかなり強い作用力が求められる。ただ「可能性」という、時間と方向性に対する余地がそこにあるだけではまるでダメで、私たちはそれらを実現の地平に引き寄せるために、ありとあらゆる行動を積極的に試行しなければならないのだ。
あらゆる行動を積極的に試行、と言っても、1日24時間の資源は生活上必要なこと(起床から睡眠に至るまで、またそこに含まれる家事・労働)を済ませるだけでかなり枯渇する。そして残された貴重な時間についても、今は小さな可能性に過ぎないところにオールベットできるかと言われれば、そこまで投資家的な人生を送れる人も少なかろうと思う。それよりは今確実に手にすることのできる快楽、それが物質的であれ精神的なものであれ、そういったものにこそ数少ない時間を投資したいと思ってしまいがちである。「リベンジ夜更かし」を薄く広く延ばしたような形で、先々の不安のヒビにパテを塗りたくる夜は、このような形で頻繁に、そして繰り返しやってくる。
履行されない「可能性」は日々負債として私自身に降り積もり、そしていつかは可能性それ自身に足をすくわれる「可能性」が高まっていく。未履行の期待や願望が、いずれ後悔という形で人生に重くのしかかることが容易に想像できてしまう。実態は想像させられている、という形に近いけれども。
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さて可能性の自重に潰されないためには、その可能性が辿り着くはずの”いつかの未来”を、安易に自分事として引き受けないに限る。未来を引き受けないとは無責任な態度であるようにも聞こえるが、私はそうは思わない。もとより、「己が未来を強く切り開かなければならない」というあたかも至上命題のごとく振る舞うスローガンは、権威ある何者によっても課されていない。
適切な年齢において、適切な段階を踏むべしとの風潮は、長らく私たちを拘束し続けている。おおよそ可能性に満ちた若い時分にあっては、もはや呪いの言葉に近い。私たちが生きているのは他でもない今この時であるというのに、そのかけがえのない今が、全て未来の人質かのように扱われている。
肥大化した可能性の呪縛に足元をすくわれないために取らねばならない姿勢とは、ともかくも今の時間軸で自分を生きることだ。
未履行の可能性は挙げれば本当にキリがない。それらに捕縛されてしまうと、日々何をしていても、その日の内に自分が取らなかったあらゆる行動の先の、あらゆる未履行の可能性が今の自分を容赦なく苦しめることとなる。
しかし、今の自分に視点を集中させてみれば、持てる限られた資源の中で、少なくとも必要なこと、できることは十分にやってのけているはずである。それらの事実に目を背け、周りが着々と履行しつつある可能性と自分の現状とを比べ、その羨望を捨てきれないでいることは、これまで自分だけが積み重ねてきた時間と経験に対する冒涜行為とも言える。
未来の可能性とは、夢想の上で不安の種として転がすものではなく、実直に生きた今が過去に成り代わったとき、初めてその実を噛み締めることができるようになるのが健全な付き合い方だ。虚像に足元をすくわれないための第一歩は、その今立っている足元を見つめるところにある。
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