公開直後に即話題。作品も超クオリティな「JOKER」のスタッフ・キャストそのまま続編。何はともあれ見なきゃな「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」見た
あれ以上やることがあるのか?と思うほど見事なJokerのまさかの続編。キャストにレディガガ参加と意外で面白いアイデアも見え隠れしてみないわけにはいかない。
直前に前作も見直した。
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映画は前作同様素晴らしかった。
脚本・演出・画面・音楽・演技、すべてのレベルが高くチャレンジングであるにもかかわらず物語に惹きつけれる。アーサーに人生を追体験するような迫真の作りは前作を踏襲。まんま続きといった感じ。本当に凄い。前作を見直して思ったのが、画面の的確さ。フレーミングから色彩、フォーカスまで綿密なプラン設計を感じるし、それがちゃんと効果的に機能してることに驚く。
見所として、
1つは没入感の高い作り。2つはバットマンというコミックキャラクターとしての側面をどうするのか。
1つ目はただスクリーンに身を任せていれば目眩く映画体験が楽しめる。
2つ目は、結論から言うと、「みんなが気持ちを重ねたJOKERは嘘っぱちだったよ」とわざわざ言うために「Joker: Folie à Deux」を作ったんだろうな。と受け取った。
前提としては、前作「Joker」ではアーサーがJOKERかどうかはそれほど大事ではなく、「社会のあり方によっては、アーサーのような人がJOKERたりえる可能性がある」というメッセージだったと思う。それが制作サイドの思惑を超えて一部の観客を魅了してしまった。おそらく「社会が人を虐げるのなら、JOKERになっても仕方がない」という受け取られ方を警戒しているのではないだろうか。創作物の受け取り方はそれぞれで、良いも悪いもないが、制作サイドがそれに対してアクションをとることもまた良いも悪いも無いので、制作サイドのスタンスを示すためにあの結末にしたんだろう。という理由。自身でケジメをつけるとう点では「マトリックス レザレクションズ」と似た制作スタンスに思えた。
前作でJOKERに共感した人は、今作でいよいよヴィランとして目覚めたJOKERが社会に復讐する映画が見れると期待した人もいるんじゃないかと思う。そう言う人はハシゴを外された形になって、怒るんじゃないかな。
映画クオリティは高いぞ
時代設定がどの辺かはわからないけど、アメリカ人だったら思い浮かぶ特定の世界観を詩意識しているように見える。(今作のレファレンスとして提示されている「That's Entertainment!」が1974年の作品なので、おそらくその辺だとして)
世界観の作り込みも良い。トーンは前作と同じイメージだが、ちゃんと今作用のニュアンスが出ていて面白い。登場人物のファッションが特に、実際にそう言う人いそうだし、職業なんかもそれっぽいし、なのに映画の登場人物としての見応えもあるしで、どうなってんのか。
テーマは虚構性かな?
妄想とテレビカメラでしか現れない歌って踊れる“JOKER”。裁判で武器としての人格の二重性。ハーレークインはあっち側でアーサーはこっち側。
前作同様ガッチリ残酷なところまで踏み込んで描いてて凄い。アーサーの可哀想加減がマックス。
そもそもJOKERそのものが、テレビアニメのキャラクラーという虚構が前提だったり、手を変え見え方を変え同じことで構成されてる。
キャストも良かった。
個人的にはアーサーの弁護士役のキャサリン・キーナーが「マルコヴィッチの穴」ファンとしては嬉しい。たまに顔を見ると「ゲットアウト」とか唸る作品に出ているので、出演作品選びは鼻の効くタイプなのでは。
ガガさんはなるほどのキャスティング。ミュージカルなので本職呼んじゃおう作戦は正解だったと思う。役者として違和感のあるカットもなかったし、そういう人に見えて大変良かった。
チラチラベテランの顔も見えたけど、それぞれさすがの存在感。何より、ザジービーツも出てて良かった。幻じゃなかった。
次も見たい!
とりあえずトッド・フィリップスとホアキン・フェニックスの何とも不思議なJOKERの話はこれでおしまい。DCのJOKERであること、それを今作る意味、社会情勢の規定など、映画作家として取りうるピースを作って緻密に組み上げた作品で奇妙な味わいがありとても素晴らしかった。今度は是非、版権のないオリジナルでさらなる高みが見られると期待してしまう。
「ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する」
まさに今作にぴったりのテーマじゃないかと思ってご紹介。
人間の世界認識とストーリー・ナラティブの関係。