総理大臣のいない国家、それが日本!!(憲法夜話)13
現役制なかりせば、昭和史は違っていた
それにしても軍部大臣現役武官制の存在は、戦前日本の命運を大きく変えてしまったと言わざるをえない。
この制度さえなければ、宇垣内閣も成立したはずであった。
宇垣一成は、自身が予備役の陸軍大将であった。
現役の大将や中将に一人も陸軍大臣の引き受け手がなければ、予備役陸軍大臣たる宇垣首相自身が陸軍大臣を兼任すればよい。
広田内閣が現役武官制を復活しなければ、陸軍大臣は予備役の大将でもなれたのだから、これで万事解決であった。
もし、現役武官制が存在せず、宇垣内閣が陸軍大臣を兼任して宇垣内閣が成立していれば、その後の歴史はどうなっていただろうか?
この年(昭和12年)の7月、支那事変が始まり、軍部の暴走によって日本は戦争の泥沼に引き込まれていく。
この軍の暴走を、政府も議会も抑えることができなかった。
しかし、この歴史の流れは軍部大臣現役制がなければ、大きく変わっていたかもしれない。
陸軍大臣は軍政(陸軍の人事、編成、予算など)の最高責任者である。
関東軍(総)司令官であろうと、支那派遣軍総司令官であろうと、陸軍の何職であろうと、任意にこれを任免することができた。
軍部を政府がコントロールできなくなった理由は、出先の軍隊の暴走であった。
出先の軍隊の司令官や部隊長が勝手に戦争を始めたのを見て、「けしからん」と言ってみたところで、内閣に統帥権(軍の指揮権)はないのだから、どうしようもない。
しかし、もしこのとき宇垣が首相兼陸相であったならば、話は違う。
軍政の最高責任者たる陸軍大臣の権限によって、彼は暴走する部隊の指揮官を罷免することができ、軍隊の暴走を阻止しえたはずである。
軍部大臣現役武官制は、まさに戦前日本の運命を変えた。
この制度こそ「立憲政治のガン」であったのである。
元勲によって支えられていた「首相の椅子」
大日本帝国憲法には、総理大臣の規定がなかった。
軍部大臣現役武官制も、三長官会議の慣行も、全てはこの「憲法の欠陥」に由来する。
もし、憲法に総理大臣の規定があり、総理大臣に大きな権限があれば「昭和の悲劇」は避けられたかもしれない。
だが、「首相の不在」と言う憲法の重大欠陥は、昭和に入るまではそれほど露呈することがなかった。
というのは、総理大臣の後ろ盾に元勲がいたからである。
元勲は当初、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌という「維新の功臣」たちがそのメンバーであった(のちに桂太郎と西園寺公望が加わる)。
元勲は天皇の最高の相談役とされていた。
といっても、元勲のまた憲法上の規定にはない「憲外の官」にすぎない。
だが、明治政府を作りあげた彼らの存在感は巨大であった。
大正末期までは、総理大臣の候補はこの元勲たちが推薦するという慣例があったので、自然と総理大臣にも権力が備わっていた。
総理大臣の決断は、元勲の決断であり、ひいては天皇の意思であるという観念があったからだ。
ところが大正に入ると、この元勲たちは次々と死んでいった。
元勲たちは、恐ろしく生命力があって長寿の人が多かった。
だが、その彼らも寿命には勝てず、大正末には西園寺公望ただ一人になったのである。
たった一人の後ろ盾しかない総理大臣が、軽く見られるようになるのは当然すぎるほど当然のことであった。
もし、元勲の死去という事態を見越して明治憲法を改正し、総理大臣の規定をきちんと盛り込んでおけば、軍部の独走などは未然に防げたはずである。
総理大臣が自由自在に陸軍大臣を解任し、自分の望む人物を後任に据えることができれば、軍人といえども官僚なのだから、ちっとも怖くないのである。
ところが、当時は美濃部達吉や佐々木惣一といった優れた憲法学者がいたにもかかわらず、そのような議論はまったく起きなかった。
というのも、明治憲法が「不磨の大典」とされていたからである。
これが重しとなって、美濃部や佐々木といえども憲法改正なんて口に出すこともできなかった。
つまり、昭和の悲劇をもたらした究極の原因は、この「不磨の大典」という五文字が生み出したものと言えるのである。
つづく
【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)
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