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さみしい夜じゃなくてもペンを持ち続ける
古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』を読んだ。
自分を好きになれなくて苦しんでいる人に紹介したい。そして中高生にぜひとも読んでほしい。人生の荒波にもまれて立ちすくむとき、この本と出会えているかどうかで違ってくる可能性がある。
「日記の効用」などという軽薄なフレーズで表すのは憚られるのだが、あさましく言うとそういう本。日記を書くと、書き続けると、何が起こるか。
私はわりと長く書き続けているけど、そんなに深く書いてないことが多いのでもったいなかったなあ、と思わされた。
(日記の話はどっかでしたと思ってたけど、聖書通読の話と合わせてちょっとしただけだった……)
私のアナログ(手で書く)日記は1行~1ページ未満がほとんど。たまにすごく書きたいとき2ページくらいになる。1行だと「マジで湿度つらいんだけどもういいかげん夏終わらんかな」「~の仕事ようやく終わった! おなかかゆいんだけど乾燥のせい?」みたいなのになる。即物的である。
でも本書ですすめられている日記は、「後で自分が読み返したくなる日記」。本気で取り組むと、毎晩たいへんな時間がかかりそう……でも、週に一度でもしっかり腰を据えて書けるといいなあ。
書かれてあることの多くは、既になんとなくわかっていることだった。
書くことを通じて考える。
言葉にすることの喜び。
日記とはその日の出来事ではなく「その日何を思ったのか」を書くもの。
――「なんとなくわかっていること」だったけど、誰かに改めて言葉にして表現してもらえると心強い。
もちろん、「おお!」と目が開かれる内容も多かった。
「考える」は「答えを出そうとすること」。そして、「すべての文章は『その時点での答え』」だということ。
「答え」をはっきり出すことがいかなる場合にも重要であるとは私は思わない。「答え」を決めずにモヤモヤした気持ちをそのまま持っているのも一つの強さだと思う。でも、言葉にすることを怠ってばかりではいけないとも思う。
ネガティブな感情とうまく距離を置くためには過去形を用いる、あるいは「私」を三人称に変える、というのも素晴らしい。
「〇〇に~と言われて私は悲しい」
↓
「〇〇に~と言われて茶ぶどうは悲しい、と思った」
こんな感じ。おお。悲しみの感情と距離ができたぞ。この技術はいつでも使えるようにしよう。
他にも、書く際のヒント、そして中学・高校、その先の人間社会をsurviveするためのヒントがそこかしこにある本。小学生から読めるつくりだが、「わかってるつもり」の大人も読むと発見があるからおすすめ。特にnoteを日常的に書いている人は「これからも書いていきたい」「もっと書きたい」「今度はこんなふうに書いてみたい」などの励まし・示唆を得られるのでは。
私の場合、まさにnoteが本書の言う「日記」に近いものになっていると思った。「誰にも見せない自分だけの書き物」ではないが、評価を気にして書いていない(学校の提出物や会社で作成する文章ではない)という点において、「そのときの自分」がとてもよく表れている。あとで読み返すと楽しい。
あるいは、読書ノートもそうかもしれない。こちらは本当に人に見せないもの。
なお、『さみしい夜にはペンを持て』を以って、読書ノートは42冊目に入った。