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第2夜 昼下がりのローズガーデン

[編集部からの連載ご案内]
宇宙観=人間が生きる宇宙についての哲学的な見方や考え方のこと。
* * *
翻訳者であり、詩人としての顔も持つ高田怜央。本連載は、日々言葉と向き合う書き手が、その眼に映る世界の在り方について、自問自答し、記憶を辿り、歴史に想いを馳せながら思考を巡らせる哲学エッセイです。宇宙のように広大な世界へと誘ってくれる思索の旅へ——今宵、あなたもご一緒しませんか? 第2夜のテーマは「楽園はどこに存在するのか?」です。(月1回更新予定)


楽園はどこに存在するのか?

エル・ドラド、アヴァロン、エデン、シャングリラ 楽園の名がいだく濁音

川野芽生『Lilith』

薔薇の香りは人を狂わせる。これは確かなことらしい。よく晴れた祝日のある日、海辺の高台にある公園を回遊したときのことだった。数百種もの薔薇が咲き乱れるその庭を、小さな頭に大きなリボンを戴冠し、たっぷりとしたレースの裾をはためかせる友人と散歩した。さながら不思議の国のアリスと巡る女王の迷宮。
 
ゲーテ、グレース、ノヴァーリス、ジュビリー・セレブレーション……読み上げられた薔薇の名前に、ひとつひとつのささやかな歴史がほのかに光る。日差しに透けた花びらは、一枚一枚フィルムのように思い出の色を映し出していた。

そのうち、私たちは「香りの庭」と名付けられた場所にたどり着いた。特に芳しい品種ばかり集められたその庭では、ダマスク、ティー、フルーツ、ミルラという4つの香りの区分に従って花壇が分けられていた。ダマスクはいかにも薔薇らしい甘い香り、ティーは青い草木のような落ち着いた香り、フルーツは爽やかなカクテルのような香り、ミルラは苦味のあるスパイスのような香りの花が多かった。近くを飛んでいたミツバチが花びらの中へと潜りこみ、アリスがそれを見守る。
 
ところで、「香りの庭」では、人々の様子が奇妙だった。ある者は電話口で悪態をつき続け、ある者は歪めた顔で静かに泣き続け、横にいる者はその悲しみを咎め、またある二人組は木陰で身を寄せ合ってすっかりまどろんでいた。およそまともな光景とはいえない。ついさっき座っていた洋館の静謐なティールームとは、まるで人の気配が違う。なぜ、いや、人間とはそもそも多面的であると思いつつ、順々に薔薇に鼻を近づけて、匂いを嗅いでいく。

ベルクソンは、薔薇の匂を嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。

九鬼周造『「いき」の構造』

くすんだクリーム色の花から香る、砂糖をスプーン大さじすくって溶かした、熱々のロイヤルミルクティーの湯気。小さなホーローのミルクパンが火にかけられたキッチン。裏庭へと通じる勝手口。イギリスの初夏の陽気。いつしか忘れた風景がよみがえる。きっと、香りの庭で取り乱したり我を失ったりしている人たちも、何か思い出すことがあったに違いない。次から次へと花に顔を寄せていくアリスは、一体何を想っただろうか。

薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂があるのみである。

九鬼周造『「いき」の構造』

「薔薇の匂い」という言葉はひとつでも、薔薇の匂いはひとつではない。それぞれの薔薇の芳香も、その芳しさに眠る記憶も、どれも異なって現れる。私にも、あなたにも。その事実の美しさと悲しさに、ときおり耐え難くなる。だから、たったひとつの薔薇の香りを讃えるために、私は詩を贈るようになった。

聞き給え。この物語も数々の俺の狂気の一つなのだ。

ランボオ「言葉の錬金術」『地獄の季節』小林秀雄 訳

訪れる詩人たちを待ち構えるかのように、進んでいった庭の終着地に植えられていたのは「アルキミスト(錬金術師)」という薔薇だった。言葉の錬金術は、形なきものを詩に変えていく。アルキミストの木は、ひっそりと、古い石のベンチを囲うように薄紅色の花を掲げながら佇んでいた。その腕の中に用意されたベンチは、二人掛けだった。言葉というのは、私とあなたの間で「交わされる」ことによって響くものであるから。

庭に千の記憶が咲き誇る。蕾はこれからも開く。

私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。

九鬼周造『音と匂 ―偶然性の音と可能性の匂―』

一輪一輪、香りを確かめるたびにうっかり経験の彼方に飛ばされる。しかし、私の隣には、湖のように澄んだ声で話し続けるアリスがいた。私たちは、同じ香りを嗅ぐことはないのかもしれない。けれども、私たちはどちらも薔薇の香りを嗅ぐ行為に喜びを見出す。喜びは笑い声になり、言葉になる。
 
やがて来た道を引き返し、狂気と郷愁の薔薇園を後にしながらも私たちは止めどなく語らい続ける。妖精、竜、鉱物、神の退屈、創造と発見の関係、身体の非物質化、人間ではない存在の言語。語られた事柄はいつか真実になる、とアリスは言う。

一段一段、石造りの階段を登る赤い靴の足取りを追いかけながら気がついた。この楽園に出口はなく、入り口もなかったことを。

ありったけのフリルに埋もれ、目覚めつつ夢みる/夢を見つつ目覚める

川野芽生『地上のアリス』

【詩】
 
Paradise Found

Rose bed,
dragons bathe and
humming bees
tangling in my hair,
 
Mae your songs rest in me.
 
 
楽園発見
 
薔薇の眠る場所、
水浴びする竜
たち と
上機嫌のミツバチ
髪に絡みついて、
 
わたしのうちに 恵みの
歌 たたずまん。

友人アリスこと川野芽生氏

詩と写真:高田怜央

高田 怜央(Leo Elizabeth Takada)
翻訳者·詩人。1991年横浜生まれ、英国スコットランド育ち。上智大学文学部哲学科卒。主な翻訳に、ヴィム·ヴェンダース監督「Perfect Days(原題)」(脚本・字幕)など。英日詩に『ユー・メイド・ミー・ア・ポエット、ガール』(海の襟袖)、「FUTURE AGENDA [未来の議題]」他二篇(『ユリイカ 』2023年3月号、青土社)など。2023年8月、第一詩集『SAPERE ROMANTIKA』(paper company)刊行予定。
Twitter: @_elizabeth_remi
Web: https://leoelizabethtakada.tumblr.com

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