公平性・正当性と私の関係
最近、頻繁に頭をよぎること。
それは、「公平性」「正当性」について。
気づけば色々と考えているので、きっとこれは私へのお題なのだと思う。
私は、公平性や正当性にとてもこだわる人間のようだ、と最近ようやく気がついた。
この部分が欠落したとき、私はひどく腹を立てるし、ショックを受ける。
これは今に始まったことではなく、幼いときから私がこだわっている(執着している)事項なのだと思う。
今でも忘れない出来事がある。
それは、小学校の2年生か3年生のときだった。
マクドナルドで開かれた友達の誕生日会でのことだった。
(ちなみに我が家はファーストフード店にあまり連れて行ってもらえない家だったため、マックで、しかも誕生日会が出来るなんて!と子ども心が相当踊ったのも覚えている)
マックのクルーの人が司会進行する形で、クイズ大会が開かれた。
クイズの内容は覚えていないが、マックに関するクイズだったと思う。
誕生日会に呼ばれていたのは、数人というレベルでなく(今考えると、すごいお金の掛かった誕生日会だ)、クラスまるごと、とまではいかないが、ざっと20人くらいは集まっていたと思う。
そのクイズは、答えを一人一人が順番に言っていって、最後に正解をクルーの人が言う、という形式だった。
何かのクイズで(数字に関することだった)、私は正解を言った。
しかし、全員の答えをぐるりと聞いているうち、クルーの人が誰が正解を言ったのか分からなくなり、他の子(その子はおとなしい感じの子だった)に、
「アナタが正解を言ったんだっけ?」
と尋ねた。
すると、その子は(今でもそれが誰だったか覚えている、私って怖いかもしれない・・・)、
「自分が言った」
と言ったのだ。
私は真っ向から対抗して、自分がその答えを言った、と主張した。
しかし、そのクルーの人は、おとなしいその子をかばって、当時、目立ってしゃしゃり出る方だった私が虚偽を言っているように扱ったのだ。
結局、お情けで、私も正解、ということになったのだが、私は本当に悔しかった。
あのとき、正解を言ったのは私だったのに。
他の子に手柄をとられ、しかも自分は嘘つき呼ばわり。
今でも覚えているくらいだから、子どもだった私は、相当傷ついたのだと思う。
誰かに手柄を横取りされる、
とか、
本当は正しいのに、自分を認めてもらえない
ということは、大人の世界ではよくあることだと思う。
保育園のとき、クラスに少し知的障害のある子がおり、その子は他の子からからかわれていた。私はよく、覚えていないのだが、ある日その子がクラスでおもらし(大きい方)をしてしまい、子どもたちがよってたかってその子に酷いことを言ったそうだ。
その中で、どうやら、自分はその子をかばって、他の子たちに激怒したことがあったようだ。
後日、お母さんがうちにお礼にやってきて、そのことは今でもうっすらと覚えている。
・・・このように、私はもともと正義感が強い人間ではあったのだが、その1件も手伝って、私は「公平性」「正当性」という鎧を身につけることになったのだ。
振り返ってみると、くだらない、と思えることもたくさんあるが、それでも私はいつも真剣に腹を立ててしまう。
大人になってからも、歯車になりきれなかったから雇われの身も憤ることが多かった。
そんな自分とずっと生きてきているので、特にそのことについて深く考えてみたことはなかったが、自分の内面と否が応でも向き合っている今、この「公平性」「正当性」が浮き彫りになってきた、という訳だ。
最近、別のブログでフォローしている方のある記事を読んだ。
その方は、フランス在住で、仕事も兼ねて色々とワイナリーを開拓していて、個人ツアーなどもやられている。
その方が、「知り合い」を好意で、自分の好きなワイナリーに連れて行ってあげたそうなのだが、その知り合いが、あたかも自分が開拓したかのようにSNSでそのワイナリーを紹介し(ある程度、名前を売ってビジネスをしているインフルエンサーの人らしい)、そして自分の主宰するワインテイスティング会(ビジネス向け)用にワインも調達して帰り、自分でビジネスを広げていったそうである。
ブロガーの方は、自分が紹介した、ということが一切でていなく(クレジット)、自分は好意で(無料で)案内して、もちろん謝礼ももらっていなければ、キックバックもなく、しかしながら知り合いの人は自分のビジネスへつなげていった、という話だった。
私はこの記事を読んだとき、
「あー、こういう人(知り合い)、いるいる」
程度に思っていたのだが、
なんだかひっかかるものがあって、色々と考えてみたのだが、そうすると、このブロガーの人の立場と、自分がよく陥る立場がとても似ていることに気づいたのだ。
私の思考プロレスは長くなるので割愛するが、なんとなく、私はその根底にあるものに気付き始めた。
私にとって「公平性」「正当性」はとても大切だ。
それと同時に、自分には「認められたい」という願いもある。
その「認められたい」が「認められなかった」ときに、私は感情のバランスを崩すことが分かってきた。
私は物凄く情報通という訳でもないし、情報をガツガツ集めにいくタイプではない。
しかし、求めている情報、周りの助けになる情報が、昔から自然と集まってくる体質のようだ。
たまたまその場にいた、
とか、
たまたまそういう人を知っていた、
とか、
自分から取りに行った、というよりは、たまたま手にした、ということが多いのだが、私は要は、情報の扱いが下手なのである。
自分は表現者でありたいのに、まだうまく表現が出来ていない。
だから、自分の放った言葉や行為が、意図しない方向に取られたとき、それらが「公平」に「正当」に扱われなかったとき、私はとてもショックを受けるのだ。
自分自身を認めてもらいたい、という欲求は、誰でも少なからずあるのではないか、と思うが、その奥に隠れているもの、
「なにを」
「どう」
認められたいのか、は私自身はこれまで真剣に考えてみたことはなかった。
少々飛躍した話に聞こえるかもしれないが、
私にとっての「公平性」「正当性」は、
自分の「表現」に深く関わっている。
・・・とりあえず、今のところ行き着いたのはここまでだ。
このテーマについては、さらに深く見ていきたいと思っている。
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