本と対話「世界は贈与でできている」編フラッシュレポート
こんにちは、まさきです。
先日、本と対話「世界は贈与でできている」編 全3回を無事終えました。
全3回で得られた問いや気づきを簡単にnoteにまとめたいと思います。
(なお、本書を読んでいる前提での文章ですので読んでいないとわかりにくいところがあるかと思いますが、あらかじめご了承ください。)
今回のテーマとした本
今回一緒に読んだ本は、近内悠太さんの『世界は贈与でできている〜資本主義の「すきま」を埋める倫理学〜』(NewsPicks PUBLISHING)です。
■第1回(第1章〜第4章)
第1回は主に「贈与を受け取る」とはどういうことか、「贈与を差し出す」とはどういうことか、について対話が繰り広げられました。
受取人の器や技術が大切ではないか?
本を読む限り、どうやら贈与を「受け取る」行為に本質があるようです。そして、贈与を受け取るには、経験的に「余裕があること、一生懸命生きること」が必要ではないかという視点も重要だと感じました。
また受け取れ切れない量だと「呪い」となってしまうこともあるため、気付かなくても良い贈与もありそうだとの意見もありました。差出が贈与か偽善かは、受取人次第ではないか?
贈与は受け取った時に立ち現れるとすると、むしろ差出人は贈っていることに気づかないのではないでしょうか。例えば、思いがけず贈っていたものに気づかれたときの感謝こそ嬉しいものです。つまり、「いつか届くといいな」という願望を込めて差し出す(=一生懸命に生きる?)ことが大切ではないかと思われます。この本は救いがない本なのか?
一番白熱したのはこの問いでした。この本で述べられている贈与は最初に差し出した人が自己犠牲になるディストピアなのではないか、と。これに対して、希望としての贈与の本ではないかとの意見もあり、この辺りの希望が今後読み進める上での期待ではないかということで、1回目は終了しました。
■第2回(第5章〜第7章)
5章から7章は哲学的でこの本の一番難しい箇所です。2回目は「言語ゲーム」や「求心的思考」「逸脱的思考」など、その難解な用語を理解することに時間を費やしました。
言語ゲーム(常識)を疑いすぎてはいけない
人がそれぞれ持っている「言語ゲーム」(常識もしくは世界観と考えるとわかりやすい)。なぜこの「言語ゲーム」を作者は取り上げたのか、を考えてみました。すると、よく「常識を疑え」と言うが、全ての常識を疑うと迷宮入りしてしまうこともある、つまり常識を疑いすぎていると、なかなかたどり着きたい真理にはたどり着けないので、第6章の「「常識を疑え」を疑え」があるのではないかという意見が新鮮でした。
そして、「言語ゲーム」は、分かり合えない他者との世界観の違いという点で、「自分を守る逃げ道」として有効に使うのはありではないかとの考え方も大切だと感じました。求心的思考と逸脱的思考の違いは志向(好き嫌い、向き不向き)で捉えるのがよさそう
なかなか捉えづらい、求心的思考と逸脱的思考。どちらが好きかという話をしてみました。
すると、例えば、本書をなぞって「求心的=推理小説=funny」、「逸脱的=SF小説=interesting」という捉え方や、千葉雅也著「勉強の哲学」を参考に「求心的=ユーモア=ボケ」「逸脱的=アイロニー=ツッコミ」という捉え方がありそうだとの意見が出て、各自がとても受け取りやすく変換ができたことが貴重だったと感じます。贈与はすきまを埋めるもの?
この本のサブタイトルは「資本主義の「すきま」を埋める倫理学」。このサブタイトルの通り、贈与はすきまを埋めるぐらいがちょうど良いのかもしれないとの意見が出ました。
すべてを贈与と捉えると、逆に苦しくなる(返礼しきれない)。だからこそ、「歴史がつないでくれたもの」というぐらいにありがたみを噛み締めることが大事かもしれない、つまり、まずはすき間にある贈与に気づくことが大切ではないかという気づきが、最後の第3回への橋渡しとなりました。
■第3回(第8章〜第9章)
最終回となる第3回は、「結局、贈与とは何か」と問いを立てて、話を展開していき、参加者それぞれが自分なりの贈与論を語ってくれました。
贈与という言葉のもつ邪悪さ
「本と対話」の最初から「贈与」という言葉に対する違和感が漂っていました。「贈与税」など、お金を結びつけやすい贈与という言葉は、現代日本人にとっては少々受け取りづらい表現かもしれないです。
英語で言うと、贈与は「Gift」。少しニュアンスが変わります。ただし、この「Gift」という言葉にも「毒」の意味も潜んでいるというから驚きです。
贈与は善悪の両義性が伴っている言葉であることは確かであり、どうやら日本人には負の側面がこびりついているのではないかと感じます。
しかし、奥ゆかしさや慎ましさを大切にする日本人の美意識においては、仏教の「陰徳(いんとく)」や、「有り難い」という本来の意味での感謝のような捉え方にすると肯定的に受け取ってもらえそうだという意見には、希望を感じました。資本主義の「すき間」とは何か?
資本主義は商品とサービスで埋め尽くされており、一見寸分のすき間のない世界に捉えられてしまいます。しかし私たち人間は、ここに「すき間」を見つけることができます。それが「歴史」であったり、「つながり」であったりするのです。
おそらく「すき間」とは「精神性」の部分であり、不合理に伴う感情や感動など、想像力を持つ人間だからこそ気づけるのが贈与ではないでしょうか。それが人と人、人と人以外の対象をつなげてくれているのだと考えられます。
もしかすると「世界は贈与でつながれている」と考えても良いかもしれないと感じました。どうやったら贈与を差し出せるか?
「贈与を贈与としたら贈与ではなくなる」という、それだけで迷子になるような気づきもありました。つまり、贈与は、「これは贈与だよ」という差し出し方をした瞬間に贈与性を失ってしまうのです(見返りを求めてしまっている)。1回目でも話されたように、無意識に贈与を差し出すことが大切に感じます。それはどういうことでしょうか?
この問いに対しては、おそらく「楽しむ」ことがヒントではないかと考え方がしっくりきました。つまり、自分の乗り気になる方向に一生懸命になって進んでいくことが、無意識に差し出すことにつながるのではないでしょうか。
同時に受け取ることも大切です。受け取ることは、気づくことであり、それが不合理であればあるほど感謝が湧き起こるはずです。そして、その受け取っていることが自身の存在の確認にもなるというのが本書のメッセージでもありました。
理想はバカボンのパパです。
「これでいいのだ」
おしまい。
今回の「本と対話」にあたり、参加者の皆さんが多様な視点での読書体験を対話に持ち込んでくれました。それによって大切な問いや深い気づきをもたらしてくれたことを、心より感謝したいと思います。
本当にありがとうございました!
下記、参加者からいただいたご感想です。
■次回のご案内
次回の「本と対話」は、ジェニー・オデル著『何もしない』という本を取り上げます。
「何もしない」ことが自身や他者、さらには環境への思いやり(ケア)につながるとして、意識的に「何もしない」ことの社会的正義を説く本書。
まだまだ手にとっている方は少ない本だと思いますが、今の時代に必要な「何もしない」の本質が詰め込まれた必読の一冊だと感じています。
ぜひご参加ください。
全3回のオンライン開催。日程は下記です。
1回目 2023年4月25日(火)20時〜22時
2回目 2023年5月9日(火)20時〜22時
3回目 2023年5月23日(火)20時〜22時
▼お申し込み&詳細はこちら
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