『すべて私のせい』という信念と”特別感”
今朝、コーヒーを淹れながら、ふと思い出した。
入学式の日に、
友だちにと待ち合わせの約束をしていた。
友だちは、約束を忘れて先に学校に着いていた。
私は、待ち合わせの場所でずっと待っていた。
私は待ち合わせに遅れちゃいけないと、
いつもよりずっと早く家を出て、その場所で待っていた。
友だちはいつも早く来る子だから、
約束の時間が近づくにつれ、私はどんどん不安になってくる。
時間を間違えたかな。
この場所であってるよね。
なにかあったのかな。
三叉路にひとり立っている私は目立ち、
通りすがりの人たちに「なにしよるん?」と声かけられる。
(田舎あるある)
「友だちを待ちようるんよ。」と、待っていた。
三叉路にはお店があって、
ずっとそこにいる私に、たまりかねたようにお店の人が声をかけてきた。
「どしたん?遅刻するよ」と。
遅刻することはとても怖かったけど、友だちが気になった。
私が先に行ったら、友だちが私を待ち続けるかもしれない。
もうこれ以上待つと、入学式に遅刻する。
お店の人に友だちへの伝言をお願いして、
友だちを裏切ったような気持ちと、遅刻するのが怖い気持ちと、
不安に押しつぶらされそうになりながら、
心臓バクバクさせながら自転車をこいで学校へ向かった。
学校に着いたら、
友だちがみんなの輪のなかにいた。
一瞬、安堵して、そして、
なんで?
なんで先におるん?
どうして?
友だちが私に気づいて、
私のところに来てくれるのを待った。
けれど、友だちは私の方に来なかった。
その輪の中から別の友達が、
私に近づいてきて、
「ゆるしてあげなよ」
というようなことを言ってきた。
どうして????
私は友だちにまだ何も言っていない。
友だちも私に近づいてこない。
なんで?
私は、友だちに謝ってほしかった。
理由はともあれ、まずは「ごめん」と言ってほしかった。
だって、約束を破ったのは友だちだから。
謝るのはあなたの方からじゃないの?
なんで私の方から、ゆるさなければいけないの?
約束を破る方が悪いんじゃないの?
どうして私が悪者になっているんだろう。
約束破られたのは私なのに…。
到底受け容れられなかった。
どうしてそうなるのか理解できなかった。
そうして、
私が悪いんだ。
という答えで、
この受け容れられない出来事にフタをした。
『すべて私のせい』という信念と”特別感”
他の人はゆるされたとしても、私にはゆるされない
という、
他の人と私は違う
という、
劣等感とも優越感ともいえる。
その『すべて私のせい』信念を抱えたままで
生きるのは辛すぎるから、
いつか本当の私をみんなが知って
後悔して謝って泣き崩れるという
悲劇のヒロインの物語を空想して
自己憐憫に浸っていた。
今も空想癖はある。
さて、今の私はどうするかな。
友だちに駆け寄って、なんて言葉をかけるだろう。
そして、友だちはなんて言うだろう。
✻
コーヒーを淹れるときは、
ぽとぽととお湯をたらして少し待って、
ぽとぽととお湯をたらして少し待って…と、
ぼんやりとしているからか、
こんな風にフタがあいたように、ふと思い出すことがある。
なんだか懐かしい痛みのようなもの。
コーヒーを飲みながら、ゆっくりと記憶のページをめくる。
もうこの痛みを思い出すことがないかもしれないから、書き残してみた。
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