私が私になりたい
私が私になりたいと思うのは、息をする方法を手にいれたいと思うのと同じだ。
主人公の「照美」のこの言葉は、私たちが感じている想いではないか。
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私たちには生まれた時から役割が与えられる。
社会で生きるために、
両親、そして、所属する集団に受け容れられるために。
息子・娘として、長男・長女として、孫として男性・女性として、友人として、社会人として、○○の社員として、夫・妻として、父・母として…
そして、その役割を自覚するよう周りから促される。
こういう場合は、こう言う。
こういう場合は、こういう行動をする。
こういう場合は、こういう表情をつくる。
等々
まるで、自分自身を役割にあった“服”を着るように。
そして、自分の言動の可否を相手や周りの反応から判定する。
こういう場合、どうすればよいのか。
いつの間にか、
自分で考えて答えを出すのではなく、その役割が答えをだすようになる。
この役割の人は “普通はこうする” が答えになる。
なぜならその方が受け容れられやすく、安全・安心だから。
考える必要もないから。
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照美の役割は、パパとママにとって“役に立つ”娘であり、双子の弟を亡くした姉、そして、同じ小学校に通う綾子にとっては友達だった。
しかし、『裏庭』にはいった「テルミィ」には周りから与えられた役割がない。
そして、『裏庭』で最初に出会ったスナッフに対し、テルミィはどう対応したらよいかわからない。スナッフは年齢不詳の風貌で、水のない河に釣り糸を垂れていた。
相手が何者なのか見当がつかないし、どういうことが失礼に当たるか想像がつかず、ひとまず“どうも普通ではなさそうな人”というラベルをつけ、自分から話しかけるのではなく、相手が気づいて話しかけてくるのを待つ。しかし、テルミィが期待した反応はスナッフからは得られず、腹を立てる。
スナッフには“普通はこうする”が全く通じない。
テルミィはカラダとソレデの貸衣装屋で、本当の自分の“服”を選び、スナッフと旅を続けることになる。
「本当の自分」を知らないまま。
「じゃあ、どうしたらいいの?」とスナッフに問いながら。
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テルミィ自身が選んだ本当の自分の“服”がもたらした結果は恐ろしいものだった。
テルミィの心に応じて変わるその服、今、血に染まり重い鎧となった服、どんなにおぞましく思っても自分自身であるその服を脱ぐことはできない。
それでも、テルミィが絞り出すように言ったのが冒頭の言葉である。
「なりたいのは、私しかいない」
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