オペラは経営史上においても最強だと思う(武井涼子)
武井涼子のビジネス書、ときどきオペラ 第3回
『史上最強のオペラ 』
著:ジョゼフ・ヴォルピー 訳: 佐藤 真理子
ぴあ 2006年6月出版
四十の手習いではないけれど、大学院での教職に転身したことをきっかけに、博士号を取りたいと考えるようになった。どうせなら、自分が一番興味を持っている分野を学びたい。そこで、アートマネジメント、中でも音楽芸術運営領域での研究を行いたい、と思うようになり、現在、昭和音楽大学に通っている。
いよいよ、今年度は博士後期過程3年目となり、論文を書かなくてはいけないのだが、色々な仕事に忙殺されて提出は本当にギリギリとなった。口頭試問ももうすぐでどきどきである。
私が3年間、研究しているテーマは、アメリカのオペラ団体の運営である。アメリカには、常勤の従業員がいて、年に一度以上プロフェッショナルな公演を行う活動を3年以上続けている、公的な非営利組織として認められたオペラ団体が160以上ある。これらのオペラ団体の中でも最大の団体が、尊敬と愛情をこめて“The MET”と呼ばれる世界最大の歌劇場メトロポリタン歌劇場をもち、年間約3億ドルの事業規模を誇るオペラ団体、メトロポリタン・オペラだ。
メトロポリタン・オペラがどのように運営されているのか、非常に詳しい回顧録を書いたのが、ジョゼフ・ヴォルピーである。彼は、1964年に見習い大工として加わって以来、42年間一貫してメトロポリタン・オペラに在籍した。1990年には、史上初めての生え抜きの総裁となり、2006年まで総裁を務めた人物だ。彼の書いた本のタイトルは『史上最強のオペラ』。まさにメトロポリタン・オペラについて語るのにふさわしい題名の本である。
メトロポリタン・オペラ総裁の仕事ぶりとは?
さて、研究を進めつつ、この本を読んで、ますますオペラ団体の総裁ほど難しいマネジメント職はないと確信した。3億ドルにのぼるメトロポリタン・オペラの事業の収益構造から見てみよう。チケットによる事業収入はたったの3割で、2番目の収益源である。では最大の収益源は何か? 寄附なのだ。寄附収入が売り上げの約半分を占めている。寄附してくれる人は、単にお金をくれるわけではない。もちろんお金には「口」が付いてくるのである。最高意思決定機関として、寄附を行った人物たちで構成される理事会があり、総裁は常にその構成メンバーであるボード・メンバーに気を配りながら運営を行わなくてはいけない。本の中にも、理事会の会長の話や、大口の寄附者の話がたくさん出てくる。その扱いは一筋縄ではいかないようで、総裁はCEOというよりはCOOに近い存在なのだということが分かる。
そもそも、総裁が監督するのはどんな事業だろうか? もちろん、チケット売り上げを稼ぎ出すオペラ上演が主な事業であり、これについては後で詳細にみることにする。それ以外の売り上げを見ると、まず、目につくのはファイナンスによる収益。これが全体の10%を占めている。実はオペラ団体は基金を持っており、その運用益も重要な売上なのである。つまり、まずは機関投資家としての基金と同じ機能を抱えているということがわかる。次に、バレエの売り上げがある。オペラがお休みの夏の間は、バレエの上演をしているので、その売り上げがあるのだ。バレエ団もメトロポリタン・オペラの一部である。事実、ヴォルピー氏の現在の奥さまもバレリーナ出身であるようだ。そして、メディア売上がある。映像を作りラジオを配信するためのコンテンツを作っているのだ。そういったメディア会社としての側面も監督していかなくてはいけない。オペラだけを上演していればいいと言うわけでもないのだ。
“一筋縄ではいかない”オペラにまつわる人々
では、メインのオペラ事業ではどういう人たちが働いているのか? そもそもヴォルピー氏は見習い大工からそのキャリアをスタートさせている。なぜ大工?と思われるかもしれないが、舞台美術、セット作りはまさに大工仕事なのである。それから、洋服の職人、美容師さんといった職人さんたちがいる。また舞台はコンピューター制御で動いているから、テック系の専門機器をあつかう技術者さんも。
舞台を作るには、演出家と舞台美術のデザイナーのことを考えなくてはいけない。照明にもデザイナーがいる。本にも演出家選びについて様々なシーンが出てくる。演出家はつきっきりでいるわけではないから、演出家が来るまでの間を支えたり、演出家の意図を必要なところに伝えたりする演出助手や、必要な物資を調達するスタッフも必要だ。
演出とは別に舞台の上での転換など、物理的なロジスティクスをまわしていくステージマネージャーという役割もある。私たちがのんびり15分間の休憩を楽しんでいる間、幕を閉じた舞台ではそれこそ舞台転換の大騒動が起きているわけで、時間以内に転換を完成させるために多くの作業が行われている。その仕切り役などが彼らの仕事だ。
それから、もちろん音楽家たち。まず、音楽スタッフがいる。おけいこは毎回オーケストラでやるわけではない。ピアノで代用する。そのピアニストたち。指揮者にもアシスタントの副指揮者たちが必要だ。合唱には合唱指揮者がいる。オーケストラはもちろん、合唱団もいる。みんな職人で一家言ある人種だ。そして、そういった芸術面を統括する芸術監督がいる。
加えてスターたちがいる。歌手、指揮者、演出家。みんな“変わった”人たち。しかも日常的に彼らと付き合わなくてはいけない。こんなに多様な人たちをうまくコントロールしていくお仕事。それがオペラの総裁の仕事なのだ。あらゆる組織の長の中でも、もっともタフで多様だと思うにいたったわけである。
とはいえ、やはり私にとってこういったオペラ内幕本の醍醐味は、自分と同じ職種、歌手たちの話である。本の中ではヴォルピー氏と、あこがれのMETのスター歌手とのエピソードがこれでもかこれでもかと書かれている。世間を騒がせたキャスリーン・バトルの降板騒動。なんと彼女は当時まだ46歳であったのだ。そして3大テノールの一人、まじめなプラシド・ドミンゴとMETに愛された歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの比較。ことにパヴァロッティとヴォルピー氏は仲が良かったようで、パヴァロッティのエピソードも満載である。巨体で、常にダイエットを試みていた彼がさんざん食べた後に、4つ出てきたアイスを一つ残して「ダイエット」をしていたさまや、単にイタリアに帰りたいだけで、契約していた舞台に出演したくないというわがままを、ヴォルピー氏がどうやっておさめたか、などなど。型破りなパヴァロッティとそれを楽しみながらも仕事を完遂する総裁のやりとりはお茶目としか言いようがない。
ああ、やはり愛すべきオペラ。私自身も、先日1月8日には紀尾井ホールでのワーグナーのグランド・ガラコンサートを経験した。あらためて、このオペラと言うまさに多様で型破りな人たちがたくさんいる世界に、歌手として、そしてまたプロデューサーとしかかわって、規模は違うが、ヴォルピー氏に強く共感を覚えた。そしてこの本を読んでいたことを思い出し公演にかかわることの幸せをかみしめた。私もすこしでもThe METに近づく歌やプロデュースを目指さなくては。ヴォルピーさんの爪の垢を煎じて飲みたい、そんな気分の読後感である。いやでも、そういうことじゃなくて、博士論文を出すためにこの本を読んでいたはずなんですけどね……。
執筆者プロフィール:武井 涼子 Ryoko Takei
グロービス経営大学院 准教授/声楽家。東京大学卒業後、電通等を経て、コロンビア大学でMBAを取得。帰国後は、マッキンゼーとウォルト・ディズニーでブランド・マネジメントと事業開発を行う。現在は、グロービスと東洋大学で教鞭をとる。アドテックをはじめイベント登壇も多く、News Picksのマーケティング分野プロピッカーとして2万4千人以上のフォロワーを持つ。声楽家としてはコンサートやオペラで演奏活動を行いつつ、毎年メトロポリタン歌劇場の副指揮者たちと「TIVAA サマー・ワークショップ」を実施。また、日本歌曲を世界に紹介する「Foster Japanese Songsプロジェクト」や千代田区文化事業助成対象事業「ニューイヤー・ワーグナー・グランド・ガラコンサート」などをプロデュース。そのマルチな活動は、日経新聞など各種メディアでも取り上げられる。著書:『ここからはじめる実践マーケティング入門』 (ディスカヴァー21)『ビジネススクールで武器としてのITスキル』(ダイアモンド社、共著)CD:「日本の唄〜花の如く」(opus55)。二期会、日本演奏連盟会員。www.ryokotakei.com
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