史実と空想が織りなす“奇妙な”ラブストーリー(園部哲)
「園部哲のイギリス通信」第5回
"The Passion"(情熱) Jeanette Winterson 1988年出版
『ヴェネツィア幻視行』
著:ジャネット・ウィンターソン 訳:藤井 かよ
早川書房 1988年7月刊行
著者ジャネット・ウィンターソンは代表作『Oranges Are Not The Only Fruit』(邦訳『オレンジだけが果物じゃない』)や『Sexing The Cherry』(邦訳『さくらんぼの性は』)などで知られる大英帝国勲章(OBE)受賞作家である。
本書は著者の自伝的要素が強いほかの小説とはまるで違う。非現実的なことを現実として描くいわゆるマジックリアリズムであり、ナポレオン戦争という史実を背景に、そこへウィンターソンが得意とする数々の寓話をはめこんだ、という体裁の小説だ。
「心臓を抜き出す」「涙が凍る」…幻想的なレトリック
主人公は二人、フランス人青年アンリとヴェネツィア娘のヴィラネル。全体がアンリとヴィラネルのモノローグで構成され、それが交互に役割交代するが、ヴィラネルが現われるのは本書の1/4以上経過したあと。第一部ではずっとアンリによるナポレオン戦争従軍体験が語られる。アンリはナポレオン・ボナパルトに心酔しナポレオン軍の鼓笛隊に志願するが、炊事班に回される。
こうした事情から本書の背景にはナポレオン戦争があるものの、戦闘シーンはいっさいない。イギリス上陸を計画したナポレオン軍がブローニュに集結するシーンから始まる本書だが、イギリス侵攻失敗の詳細は語らぬまま、舞台変わってロシア遠征へと飛ぶ。戦闘にはいっさい係わらぬアンリは、ヨーロッパ大陸の西から東まで憧れのナポレオンに付き従ってゆくうちに、当初の情熱が消えて幻滅にかわってゆくのを感じる。
第二部では、以上のストーリーとはまったく無関係にヴィラネルの物語が始まる。彼女はヴェネツィアのボート漕ぎの娘。両性具有的な彼女は男装をし、カジノのディーラーとして働いている。
そこで出会う客の賭け事に対する異常な情熱も本書の隠れたモチーフだが、客の一人である裕福な人妻との出会いはヴィラネルの知らなかった情熱をかきたてる。この人妻は男装したヴィラネルを誘惑し、夫が不在の間、ヴィラネルとの情交にふける。ヴィラネルはこの人妻を激しく愛し始めるが、夫の帰還後この関係を諦める。「ハート(心臓)」を人妻宅に残して(これが比喩ではないらしいのがいかにもマジックリアリズム的展開)。
第三部は再度アンリのモノローグに戻り、ロシア遠征の窮状が語られる。寒さに震えて凍死するよりは「心臓を先に抜き出し」た方が楽だ、寒さも感じない、などという表現が現われるが、これは明らかに上述ヴィラネルの“ハート置き去り”エピソードに呼応している。こうしたクロス・レファレンスが縦横に走るのが本書の特徴でもある。アンリは絶望のあまり脱走を考える。ブローニュからの仲間であるパトリックと脱走計画を語るとき、アンリは涙を流す。
僕は泣き始め、僕の涙は頬の上でダイヤモンドのように凍った。パトリックはそれを一粒つまみ、塩分を無駄にするなよと言った。そして考え深げにそれを口に含んだ。「ウォッカによく合うな」
このような叙情的な、童話のような味を含んだ文章の頻出も本書の面白いところだ。
ともあれアンリとパトリックはモスクワから脱走するが、その途中で一人の娘に出会う。それは傷心の末にヴェネツィアを立ち去ったヴィラネルだった。三人はイタリアを目指し徒歩で南下するが、途中でパトリックが死ぬ。二人だけになってからアンリのヴィラネルに対する思いは募り、そのままヴィラネルの故郷ヴェネツィアへ。しかしアンリのヴィラネルに対する愛情は容易には報われない。以降最終ページまでに、本書中で一番動きのあるシーンと静かな余韻を残す結末が待っているが、すべてを明かすのは控えておこう。
寓話的表現と箴言めいた言葉が光る
本書は明確なプロットのある作品ではないけれども、文章の美しさと著者の箴言めいた文章を味わい、あちこちでキラキラ光る魔法に魅せられれば良いのだろうと思う。
著者は本書執筆から10年後に後日談を書いている。執筆時はサッチャリズムのまっただ中で(日本のバブル期に重なり)ロンドンではいわゆる「ヤッピー(yuppie)」が跋扈し始めていた。そういう世相とはまったく別の世界を創造したかったのだという。
尚本書は、1988年に早川書房より『ヴェネツィア幻視行』というタイトルで翻訳版が出ていたが現在絶版の模様。
執筆者プロフィール:園部 哲 Sonobe Satoshi
翻訳者。通算26年ロンドン在住。翻訳書にフィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流:「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』、リチャード・リーヴス『アメリカの汚名:第二次世界大戦下の日系人強制収容所』(いずれも白水社)。朝日新聞日曜版別紙GLOBE連載『世界の書店から』のロンドンを担当。