都庁安倍課~木曜日はわりと元気
「そ、それでは地域の見回り行ってきます。」
ADHDの吉川は、母親に教えられた通りの丁寧な挨拶をして外に出た。看護婦さんとペアで、地域の独り暮らしのお年寄りを訪問するのだ。
「この季節は歩いていて気持ちがいいから、ちょっと回り道しない?」
看護婦の井上さん珍しい事を提案した。
「そんなに気持ちいいかな?」
吉川は少し疑問を抱いたが素直に従う。実はこの道は井上の通勤ルートで、この先に日赤の募金がある事を知っているので、わざと避けたのだ。
吉川は以前、とあるNPOで募金活動をしていた。彼はその活動が世のため人のためになると信じていた。しかしそのNPOは暴力団が絡んでおり、募金は暴力団の元へ全額ピンハネされていたのだ。皮肉にも、障害のある吉川は成績が良く、そのNPOでもてはやされ、賞状までもらった。だからこそ事が公になってからの吉川の落ち込みは酷く、誰もが見ていられなかった。そこで古川の母親が、別の事に目を向けて欲しいと、主治医の推薦状も付けて都庁に応募した。
「障害のある人を使って騙すなんて、許せない!」
と井上は義憤に駆られる。
「井上さん、気分でも悪いの?」
吉川に顔を覗かれ井上は我に返った。いけない、気づかれてしまう。それにしても本当に吉川君は優しい。一般的にADHDの患者は優しく繊細で落ち込みやすい。だからこそ私が守ってあげなければ、と井上は看護婦の使命感に勝手に燃える。二人が先に進むと、何やら先に人だかりが出来ていた。
「三つ子の魂百まで」
とはよく言ったものである。
「懲りない……。」
井上は唖然とした。まさにあのNPO団体が、募金名を変えて一つ向こうの道で、吉川が居た時と同じ形式で募金活動を行っていたのだ。恐る恐る吉川の顔を覗くが、もう遅い。吉川は既に気が付いていた。井上は意を決し、携帯を取り出し、110番に掛けようと画面を見た。その手を吉川は掴んだ。
「だめだよ、井上さん。」
井上は吉川の顔を再び見つめた。
「こ、これは僕が乗り越えるべき、か、課題なのだ。」
首を軽く揺らしながら吉川は続けた。
「人に、任せてばかりじゃ、いけないんだ。誰だって、傷つくよ。僕は、極端かもしれない。」
唾をごっくんと飲み込み、彼は頭を擡げた。
「でも、ママも、お、お医者様も、課長も、いつか居なくなる。一人で、頑張れるようにしなきゃ。だ、大丈夫。」
吉川は、ひょこひょこと飛び跳ねるように、募金の集団へ近づいていった。顔見知なのか、数名が吉川を見てぎょっとした。彼らは吉川を避けるように後ずさりし、吉川はいつのまにか奥へ奥へと入り込んでいった。
「み、みんな、だ、駄目だよ。」
吉川がどぎまぎしながら語りだす。するとざわつく集いから、髪型をニワトリのようにわざとらしく整えられた男が、おもむろに近づいてきた。
「なんだね?」
一番会いたくない、元締めのヤクザであった。これがインチキNPO主催者、さすがに眼光が鋭い。吉川は拳を握りしめ、
「こんな、ことしていたら、バチが当たるって、ママが言って、い、いました。」
「なんのことかわからないな~ああ!」
元締めは吉川をからかうように顔を覗き込む。当然目は笑ってない。
「だめなのですう~。」
吉川は、膝はおろか既に体全体がガクガクしている。
「あかん、完全に飲まれている。暴力は良くないが……。」
井上が空手の構えを整えたまさにその時、吉川は以前の仲間を見つけ、一歩前に踏み出した。
「本当にいいの?そんなこ、ことばかりしていて。みんな本当はまずいって分かっているでしょう。真面目に働こうよ」
仲間のうち、話好きの女性達(大抵の女性は話好きだ)が、堪えられなくなり、吉川に喚く。
「だってもうここしかないのよ。」
「あなたはいいわよ、居場所があって。」
「そうじゃない!」
吉川は叫ぶ。
「別の、ボランティア団体だって、いいじゃないか。最近は、マックも、ロウドウカンキョー?だっけ?カイゼン、されたと近所のお、ばさんが言っていたよ!僕、あんな風に、決まった通りに、手早く動くなんて出来ない、途中で飛び跳ねちゃうし。みんな、出来ること、いっぱいいっぱい、あるじゃないか。またやり直せばいいよ!。」
「そんなの無理。」
女性ボランティアがポツリと呟く。
「なんで?」
吉川が首をかしげて問いかける。
「私職場の人間関係がうまく作れないの。どこの会社に入っても、お局さんに虐められちゃうの。」
俯ききながら答えた。吉川は手をふわふわと動かし、
「ど、努力だよ、少しずつ、打ち解けて。」
女性は口元に薄ら笑い浮かべて言った。
「ありがとう、吉川君。でも私、分っているの、自分のどこが駄目か……。」
女性は首を挙げて続けた。
「私、観察したことを正しく伝えてしまうの。つまりお世辞がいえないの。」
吉川も井上も言葉に詰まった。
彼女の右隣の、ビラを手にした育ちの良さそうな青年が、頷ききながら話し出した。
「リケジョはつらいよな。僕はコンビニで働くと、医師の父の顔に泥を塗ってしまう……。折角医大出ても、メスを持てずにメンス用品の補充かよって……。でも、どうしても手が震えて、持てなかったのだ。家には帰りたくないけど、血を見るのがいやで非行にも走れなかった。吉川君、君は恵まれているのだよ。」
最後に後方に居る、眼鏡を掛けてポロシャツをジーンズにシャツインしている男性が、遠い目で言う。
「僕は早慶大を出ているのだ、そんな所で働けないよ。」
「仕事に貴賎はありません!」
井上は思わず声を荒らげる。早慶男は、ぎょっとして後ずさりをした。ええい、情けない。
「井上さん、だめだよお、怒ると迫力あるのだから。」
井上はぎくりとする。まだ吉川君には空手4段とはバレて無いはず。井上は引きつった笑みを浮かべつつ
「そ、それでは資格を取れば?。」
と薦めた。それを聞き、リケジョはため息混じりに答える。
「資格取得で人生やり直そう、と考えた事もあったわ。でも……弁理士の兄は年収200万円よ。結局対人スキル物を言うのよ。」
「もう駄目なんだぁ、大企業リストラされたら行く場所なんて無いんだー。」
わっと泣いてかがみこむ元早慶大卒。人間どうなったって生きていける、いい大人がなにを情けない、と井上が叫びだしそうになったとき、吉川は前に進み出て、そっと彼の頭に手を置く。その姿は、さながらキリストが弟子に洗礼を施しているようだった。
「だ、大丈夫、やり直せるよ。ぼくだって、で、できたのだ。最近ラインもつかえるようになった。何かあったら、連絡してよ。」
「吉川君…」
元早慶大卒も周囲も、その光景をみて感涙にむせんだ。本当は皆、居場所が欲しかったのだ。井上はそこまで分かっても合点がいかない。
「居場所なんて、バイトや仕事をすれば勝手にできるのでは……。」
井上ははっとした。ここの人達に既視感があった。そうだ、研修で参加した、引きこもりサークルの人達だ。周囲にどうやって溶け込んでいいか分からず、自分から声を掛けられない。その上相手の言う事を、正面から受け止めて流すことが出来ない。つまり他者の言動に過敏に反応してしまうのだ。
「あの、私、皆さんのような人達、知っています。」
井上の言葉に皆振り向く。
「あ、皆さんのような人達って言い方失礼ですよね。皆さんように繊細で過敏な方々(たしか批判しちゃいけなかった、危ない)最近は増えているのです。ネーミングに問題があるかとい思いますが(いや君たちはそのまんまだよ)、市役所は“引きこもり復職プログラム”という名前で、皆様のような繊細な方々(気を使うって疲れるなあ)に、十分なケアを準備している企業を紹介しております。」
「でも、私なんか。」
「失敗したら、怒られないかなぁ。」
(それどころじゃないでしょ!)井上は呆れ顔になるのを必死で抑え、
「大丈夫ですよ、皆さんに理解ある方々や企業はたくさん居ます。都庁でも毎週水曜日午後から復職説明会、と、これは産業医対象でした。なにか、有益な情報を得られたらお知らせしますから、えっと私のノートに、携帯のアドレスを書いていただけますでしょうか?(ここはいったん引く、と指導された)無理に来なくてもいいですから。来たいときにお越しになれば大丈夫ですから(私もだんだん慣れてきた)。」
募金活動をしている人たちは、はじめは数名がおずおずと記入し、そのうち井上の前には、復職関係のメーリングリストに参加したい人で溢れ返ってきた。記名が終わると、彼らは以前よりほっとした顔をし、募金セットを整理して家路へと向かっていく。
「おい、みんなどうしたんだよ」
ヤクザの元締めの言葉は、既に彼らには届かない。皆、居場所が欲しかっただけなのだ。これをして、あれをして、それをして、と指示してくれる人が欲しかったのだ。
「おい、金稼ごうよ!沢山募金集めれば、こ、今度はボーナスもつけるぞ!」
元締めは慌てて彼らを呼び戻そうとするが、皆の心にはスルーしてしまう。元参加の顔には“何も分かっていない”という燐便の表情さえ浮かんでいた。しかし本来哀れまれるのは元参加者のはずだが。
誰も居なくなった広場でヤクザは呆然と立ち尽くす。
「君も、やりなおせるよ」
吉川が手をかざそうとした瞬間、憤怒の表情でヤクザは振り向いた。
「お前が来てなにもかもおじゃんだ、どうしてくれんだよ!。」
ヤクザと吉川の間に井上は割って入る。
「吉川君、こんな人に理解求めたってしょうがないよ。」
吉川は無垢な瞳で井上を見つめる。
「井上さん、そういう考え方は良くないよ……。」
井上はちょっぴりときめいた。異性からそんな瞳で見つめられることはあまりない。
「理解もへったくれもあるか!」
やくざが吉川を殴りつけようとした刹那、井上はヤクザの腕を捕まえ、背中に回す。
「な、なんだぁてめえ、う、うわぁ。」
ヤクザの体や宙を舞い、そして……。
数時間後、熊野神社前交番にて、井上と吉川に、龍山巡査がほうじ茶を淹れて呟いた。
「やりすぎちゃうのですよ、井上さんは。」
「すみません。」
井上と道場で顔見知りの、龍山巡査はやれやれとつぶやく。吉川がヤクザと井上の対決、いや、空手有段者の井上がヤクザに傷害を与えかねないと、咄嗟の機転を働かせて呼んだのだ。
「まあ、今回は相手が悪いので、上には報告しないでおきますよ。それに、彼の顔も立てないとね。」
吉川の誠意をこめた謝罪は結構効くのだ。運良く無罪放免になったが、井上の心中は複雑であった。とにかく訪問介護を終わらせようと、道順を再確認していると、
「き、今日は、もう疲れたでしょ?なんなら、井上さんは、直帰しなよ。阿部主任には、僕からて、てきとうに言っておくよ。」
不思議な暖かい空気が井上の内側から湧き上がってきた。私は、吉川さんに守られているのだ。彼はトラブル処理能力も、人間的にも立派な大人の男だったのだ。
つまり、彼は自立した社会の一員だったのだ。それなのに、私の中に善意と言う形で偏見が形づくられていたのだ。これは……私の看護婦としての大いなる課題だ。
「ありがとう吉川君。でも、やりかけの仕事もあるし、職場に、一緒に行ってくれる?。」
龍山巡査の温かい視線を後ろに、二人は交番を出発した。
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