ここから⇒人生の広場"応援する人、される人"
これは初めてフルマラソンを走った時のことだ。過酷なレースの中で、それまで実感することのなかった「応援の力」を実感することになった。そして、「応援はそれに応えることでその力を何百倍にも増幅できる」ということを身を以て発見した。今回はそういうお話です。
応援に応えるのは恥ずかしい?
ぼくは走るのが趣味で、これまでに何度か10キロのレースやハーフマラソンのレースに出場してきた。
そしていつも、沿線で応援してくれる人たちを見ても爽やかに応援に応えることができず、それが心残りだった。
「あんなに声を出して応援してくれているのに、黙って素通りするのは申し訳ないなあ」と思ってはいても、知らない人に手を振り返すのってなんだか気恥ずかしいじゃないですか。
でも応援されるとそれだけで気持ちが上がるのは確かだから、それにきちんと応えたいという思いは常にあった。
だから次のレースでは、応援されたらきちんと返事をしていこうと決心した。
はじめてのフルマラソンで
そして今年の3月、石川県の『能登和倉万葉の里マラソン』というフルマラソンの大会に出たときに、それを実践してみることにした。
それはぼくにとって初めてのフルマラソン。
この大会は都市部の街中を走るコースではなくて、能登半島と能登島の海沿いの田舎道がメインコースとなっている。だから地元総出で応援してくれても道中ずっと人がいるわけではなくて、ポイントポイントで出迎えてくれる感じになる。応援してくれるのは年配の方が多かった。
その日は天候不順で途中から雨が降ってくるわアラレが降ってくるわ海から台風のような強風が吹き付けてくるわで荒れに荒れて、本当に寒かった。
ゴールの和倉温泉は、海のはるか彼方
応援してくれる人というのは、ぼくのような比較的他人に無関心な人間からすると実に不思議な存在である。サッカーや野球で贔屓のチームを応援するのはわかるし、知っている人が出ているから応援するというのだってわかる。
だけど、マラソン大会で走っているのはただの見ず知らずの他人だ。
それなのにどうして無償で声援を送ってくれるのだろうか。
彼らは、もちろんぼくが通るときだけ応援している訳ではない。ぼくに対してというより、レースに参加している人全員を対象にして応援しているのだ。
最も、彼らからするとフルマラソンを走る方が不思議なのかもしれないけれど。
走るのが好きな人もいれば、応援するのが好きな人もいる。
単純にそういうことなのだろうか?
エイドステーションで供給された能登ガキ丼
「声援に応える」ということ
ぼくは計画していた通り初っ端から応援に応えていった。
まず手を振り返す。だけどそれだけでは足りないような気がして、思い切って「ありがとう!」と言ってみた。そして道中できる限りそれを続けていった。
すると思いがけないことが起こった。ただ素通りしていた時とは明らかに違う。
ちょっとしんどいなと思っていても、そうすることですごく走るのが楽になって、マラソンが楽しくなったのだ。
考えてみれば当たり前だけれど、そうやって声援に応えられると応援していた人も嬉しいらしい。ハイタッチを求めてくる人もいれば、顔を見てさらに「がんばって!」と声を掛けてくれる人もいる。なかにはゼッケン番号を呼んでくれる人までいる。
つまり、手を振って「ありがとう!」と言うだけで道中の声援をすべて「ぼく」という個人に向けられたものにすることができるのだ。それまで不特定多数に向けられていた声援が、一気に自分のものになる。これは素晴らしい体験だった。
それは、言うなれば精神的な栄養補給と一緒だ。
喉が乾いてくる前にエイドステーションで水を飲むのと同じで、心が荒んでくる前に声援を受け取っておけばその後も和やかな気持ちで走り続けることができる。
なんせ田舎道を走るレースなので道中誰もいないことも多かったけれど、コースの向こうに応援してくれる人がいればそれを目標にして走ることもできた。
応援に応えること。
それはぼくがフルマラソンを完走するためには、本当に役に立った。
考えてみれば、これまでぼくはスポーツ競技で誰かを応援する、ということがほとんどなかった。だから機会があれば、今度は出場する側ではなく応援する側として何かの大会に行ってみるのもいいなかもな、と思っている。
マキタ・ユウスケ
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第1回『ここから⇒人生の広場』
第2回『リップクリーム』
第3回『ベンチ』
第4回『夕日はどこに沈む?』
第5回『灯台を見にいく』
第6回『東京で流れるジョビン』
第7回『夏のつる草』