📚『坂の途中の家』
角田光代さんの『坂の途中の家』、読みました。実を言うと、すっごいパラパラ読みから始めて結局立ち読みで読みきってしまったので、飛ばしてるところもあります。(ごめんなさい、買います)
私はやっぱり水穂の裁判の内容よりも、里沙子と陽一郎、文香の向かう結末が気になって、そっちメインで読みました。
本当に本当に読んでて気持ち悪くなりそうだった。なんでかなって考えるまでもなく分かるのは、私にも似た経験があるから。
モラハラっていったら一括りすぎる、言われる私ですら自覚しないような劣等感の植え付け。しかも、相手は怒鳴ることもほとんどなく、基本的に私の望む通りにしてくれる、私にぞっこんなはずの恋人。
ぞっこんなはずの人が私の嫌がることをする、いっけん矛盾するようでいて、本編を読むと分かる矛盾のなさ。
つまり相手はそういう愛し方しか知らない人だということ。
自分を超えて出て行かないで欲しい、
自分から羽ばたいて行かないで欲しい、
自分の小さな姿に気づかないで欲しい、
気づいて幻滅されたくない、
その真意は…
自分は全て見せても好いていてもらえる存在ではないという自己肯定感の低さ
劣等感の強さ
そんなことを描いていました。
わかりみが深い。
里沙子が水穂の話に感情移入よりも強く自己投影させていくのと同じように、私も里沙子と陽一郎の様子に自己投影して考え込んだ末に思ったこと。
思考停止ってこえー
ってことです、はい
相手はほとんど無意識にその恐ろしい行為を仕掛けてくるわけですから、悪意や企みは感じ取りにくい。その時自分を救ってくれるのは自分の思考だけ。
この人の真意はなんだろう、
この言葉のニュアンスに含まれる意味は?
なぜこのタイミングで、
なぜ私に、なぜ私以外に…
思考って些細なことでいいと思うんです。
些細なことでいいから思考することを日常にしたい。そう思いました。
思考停止して相手に従うことは楽だけど、
そこで楽することは、
相手に自分を簡単に奪わせることになる。
自分の
感情も自信も価値観も思考回路も。
しまいには
判断力すらも奪われた結果
が
あの日の水穂であり、菜箸もったままクローゼットに立った里沙子だ!
とこの本は叫んでいるように思います。
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