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絵とエッセイ㉘春の不調と制作と

無料掲載:2025年2月22日(金)~2月28日(金)
*掲載が一日遅れてしまい申し訳ありません。

朝、起きて頭がスッキリしている事が奇跡のように感じる時期がある。

そうでないときは最悪で、体がだるく首の後ろから頭部にかけて、重くだるい。そんな、感覚があるたびに、起きる事を否定したくなる。
「重い、頭がだるい」
そのだるさは日中にも続いて、歩いていると眩暈を起こす事もあった。
身体が悪いのではないのかと内科に行ってはみたものの、問題なく【健康体】と言われる。
学校や仕事先では歯を食いしばって一日過ごす事がザラな日々。
「仮病じゃない?」
「神経が弱いんだよ」
と影で言われても何も言い返せない自分に嫌気がさした時がある。
両親は心配し、しかし病気ではないので、きっとどう接して良いのか分からなかっただろう。

冬から春へ、自然が息吹を上げる季節に、私は体調が悪くなる。

体調は悪いが、昔に比べるとまだましな不調だ。
上げるなら、片頭痛と緊張型頭痛とだるさと少量のイライラ。
人混みや賑やかな場所を避ければなんとか過ごせるし、調べれば対応も分かる。
片頭痛は温めない事、緊張型頭痛は温める事。
ストレスの頭痛と肩こりや首のこりからくる頭痛は対応が異なっている。
もともと血行が悪いのもあるけれど、ストレスを抱えやすく作りやすい気質なので、酷い時は両方出る時がある。
そんな時は冷えピタを額に張り、とにかく休む。
予定は申し訳ないが、キャンセルする。
とにかく、重要なのは【休む事】
昔はもっと酷かった。
悪い時の症状は、とにかく背中の中心が痛い。
訳わからずイライラする。
頭はボーとして首が痛く、酷い時は頭痛で起き上がれないほどだ。
学校でもよく保健室に行ったし仕事でも急に休んだりすることが多かった。

「季節の変わり目に体調が悪くなる」
いまでは、【気象病】や【春バテ】と名前がついてくれるので説明がしやすいし理解されやすくなった。
気質的にいうと、私はたぶんHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)いわゆる「繊細さん」と言われる気質を持っているので、とにかく、春先のワイワイした場所にはいけない事は理解できるようになった。

こんな時に呟く言葉は「仕方ない」
春は冬から春の気温差で自律神経や副交感神経が乱れるので「仕方ない」
新生活で活気に満ちた場所で疲れるのも「仕方ない」
春バテでイライラする人からストレスを感じとるのも「仕方ない」
とりあえず、対象が自然なので「仕方ない」というわけだ。
年を重ねて丸くなったこともあるが、自分の事を私なりに調べて聴いて勉強した結果「仕方ない」にたどり着いた。

心の平穏が一番「春」には良いらしい。


数十年前はこの体調不良を疎ましく思えて、不調な自分が嫌いだった。

不調は突然やってくる。
早朝にいきなり頭痛で吐きそうになりる。
とにかく、ベッドから起き上がれずに食欲もない。
そこで問題が一つ、職場への連絡だ。
「休みがちな人間だと思われるかもしれないな・・」
そんな考えが頭を巡り、電話を掛けるのに一時間かかる時もある。
それだけで、自分が情けなく、ストレスが生まれるわけだ。

【病気ではないが、体調が悪い】
熱もない、体のだるさと頭痛以外何もない。
ベッドの中で苦痛に耐えながら、自分の弱さにうなされる。
「自分は精神的に弱い人間なんだ」
「どんなに辛いと言っても、誰も理解してはくれない」
「自分が弱いから人に受け入れてもらえない」
今思うと当時は【気象病】も【春バテ】も【HSP】という言葉が無い時代。理解の方法があまりにも少なかった。
苦痛を抱える自分もその理由が分からずに「弱い自分がいけないんだ」と、見当違いの気持ちを抱えるようになってしまった。
「強くならないと生きていけない」
理解されないのなら、我慢するしかない。

自分の不調が【自分を否定】する理由になり、他人に頼る事を「いけない事」と思い、不調をを隠す事が上手くなっていった。
「普通でいなくてはいけない」
どんなに気分が悪くても学校に行く。
頭痛が酷くても、歩けたら仕事に行く。
仕事の合間に頭痛が悪化して、吐きそうになりながら意識朦朧と電車に揺られ帰宅する事もあった。
食事も採れずベッドに倒れ込んで、(普通に過ごせた)と安堵する。

「自分は弱いから、しっかりしないと」
「認めてもらう為には我慢しないと」
呪文のように自分に言い続けて、自分の具合の悪さのボーダーラインが分からない。
日々、背中が痛く、時に頭に激痛が走る。
胸が苦しく、息をするのが辛い。
気が付くと食事がとれなくなり、立っている事も辛くなる。
頭痛が酷すぎて意識がもうろうとする。
風呂場で意識を失ったこともある。
「でも、仕事をしなくてはいけない」
休んではいけない。
強くならないといけない。
苦しくても我慢しないと生きていけない。

【いけない】【しなければいけない】は時に、自分自身の感覚を傷つけてしまう言葉でもあるように思う。
「しない・いけない」で生きてた日々は、自分の限界が分からず、自分自身を傷つける毎日だった。

春先の体調不調は、心療内科の先生に聞くと良くあるらしい。

最近では、検索してみても概要が出るほどだ。
春先は、寒暖差や気圧の変動が大きい為、自律神経のバランスが崩れやすく、体調不良が起こりやすくなる。先にも書いたが「気象病」や「春バテ」というらしいのだ。
春は入学やに入社式など新しい生活が始まり、人間関係などで知らないうちにストレスが溜まるという事だった。
とにかく春はいろんなことが影響して体調を崩しやすいのだ。

「君はいろんなストレスを貰いやすいから、気を付けた方が良い」

介護職の時に動悸が止まらず苦しく眠れず、心療内科に行った時に言われた言葉。他人のストレスを過剰に受けてしまう事で、さらに自分自身でもストレスを作ってしまう為に体調不良を起こしてしまう、いわゆる敏感な神経を持っていると説明を受けた。
「ストレスを貰いやすいから、気を付けた方が良い」
その時はどうやって気を付ければ良いのか分からなかった。

考えてみれば、周りはストレスに溢れている。
他人のストレス、気温差のストレス、自分の不調からのストレス。
溢れんばかりのストレスを無自覚で貰ってしまい、かつ影響を受けてしまうという気質。
「自然相手はどうしようもない」
「他人の事をどうする事も出来ない」
【だから気を付けろ】という忠告だった。
「感受性が豊か、他人の気持ちを察する事が得意」
しかし、それに耐えられない事を知り、膝に障害が出たのがきっかけで介護職を辞める事にした。

諦める事を強いられる日々。

「これから先、こんな意味不明な事で悩まされるのか」
どうにもこうにも、納得がいかない。
「この痛さと虚しさをどこにぶつけたらいいのか」
神経がボロボロに崩れていく、心がひび割れそうなこの空虚感をどうにかしたい。自分では抱えきれないほどに、その虚しさは重すぎた。
その時、自分は絵を描いていて、この苦しさを残そうと不意に思った。
「絵でこの苦しさを表そう、この感覚を描き込もう」
気持ちを吐露するような制作は、何時しかテーマになっていった。

【虚しくてどうにかなる】
そうしないとどうにかなりそうな時に生まれた絵が【倒木】という、人でもなく木々でもなく、今にも朽ち果てそうな【何か】を描くような作品だった。神経が疲弊して割れるように痛い背中、指先がジンジンと痛くなる言いようのない感覚。
「苦しいんだ、こんなに痛いんだ、誰か分かってくれ」
そう思うほど、樹皮の亀裂は多くなる。
苦しさは自分の人生までを悲観さる。
【流されるままの無力な自分】として【流木】という作品ができた。
春が来るたびに、悲観的になり、ストレスを抱えて、梅雨が来て、夏が来て、やっと秋で過ごしやすい季節になる。

「この苦しい日々は何時まで続くのか?春が苦しいのならずっと冬で良い」
理解されないなら絵に残す。
終わらないなら、終わりを知らなくてもかまわない。
そんな事を思い、桜の花を疎ましく見上げ、眉間にしわを増やした日々は、生きている事が楽しいと思う事出来ていなかったように今は思う。

「だるい・・」

そして、今年も何十回目の「春の兆しの体調不良」がやってきた。
黙っていても、寒暖差で自律神経と副交感神経が、激しく乱れてイライラする。
体調不良からくる【頭痛】に対する恐怖心で緊張する。
お陰で集中力も出ないから絵も描けない。
描けない日は少し散歩に出るようにしている。
「春が近いな、そろそろ梅が咲くな」
向かいの家の梅に花が咲いているのを見て、綺麗だなと思う。

些細な変化に良く気が付くものだ。
疎ましく思っていた季節だが、思えばこの不調は【春】に対する性能の良い探知機だと思うようにした。
散歩に出ると、広場に青いオオイヌノフグリが咲いているのを見かける。
桜はまだ先だが、あと少しでツクシも生えてくるだろうし、緑があっという間に広場を覆う。
洗濯を干している時には自生の水仙を見かけるようになった。
「春が近い」
しばらく歩くとなんとなしに【絵が描けるのではないのかな】そんな気がして家に帰る。

体調不良は困るが、もう疎ましく思う事は無くなった。
自分の過去を振り返り、苦痛の中で必死に生きてきた【自分自身】の気持ちを認める事で「仕方ないか」という言葉を使えるようになった。
「もう無理はしない、無理をしても良い事は何もなかった」
(頑張ってきた自分を少し労わろう)
そう、思えるようになった。

そんな気持ちと共に、苦しみもだえるような【倒木】は描かなくなった。

何があったかと問われれば「自分の体調不良を認めた」思いつくのはそれぐらい。苦痛ではなく、他人より些細な変化を感じる、そんな自分を理解しようと思っただけだった。
「春先は体調が悪くなる」
ならば、事前に他人の多い所は避けて自然の多い場所に行く。
イライラしたなら、しなくなるまで散歩をする。
体調が悪ければ無理をしないで横になる。
約束事などあれば事前に体調管理をして、それでもダメな場合は事情を話し謝る事にする。
理解されない時もあるが、もうそれは仕方ないと思う事にした。

そんな行動をしていると、不思議と理解してくれる人が周りにいる事に最近気が付いた。
【理解されず、否定されるのが怖い】
恐いから、自分の体調や気質を、気持ちを無視して「誰かが思う(普通の人)」になろうと無理をした。
恐いから自分から独り。孤独になったかも知れない。

「まず、自分が自分を理解して行動しよう」
自分の体調不良は【季節変化の探知機】
身体に走るピリピリした感覚は「苦痛」ではなく、自然の生命力。
思えば何もない土の中から芽を出すことだって、物凄い負荷がかかる事ではないのかとも思う。木の枝から、芽が突き出し、花を咲かせ、満開の果て花を散らすその姿は、人間の一生ではないのかと思えて、その生命力に感嘆とする。
【生命力】なんて目で見えるわけではないのだが、いうなら感覚で分かるというやつだ。
「自分は感覚で理解する」
それが、春先のイライラだったり、怠さだったり・・ちょっと嫌だけども、一足先に春を感じとれると思えば、良い事もある。
私は【絵を描いている】
最近は【色彩】でも描けるようになったので、苦痛ではなく生命力を感じたままに描いてみたいと思うようになった。

苦しいのは変わらない。
片頭痛も緊張型頭痛も、気を抜いていたら起きてしまう。
体調不良でイライラもするだろう。
人混みに入れば、他人の緊張もイライラももらう事もあるだろうが、それでも、やりたい事があるので「生き方を考える」ようになった。
抱え込んだら、ストレスで蝕まれるし、せっかく生きているのだから、楽しい事を探したい。
【やりたい事がある】
それが【生きたい理由】になり【力】になるのだろうと思う。

色彩で描けるようになって、アクリル絵具で描くようになってから、テクスチャーアートで感覚を、感触で描きレジンで繊細な心の動きを表現できることに気が付いた。
「もっと、この感覚を表現したい」
春先のぼんやりとした頭の中は、これから先の表現について思いを巡らすばかりだ。

やりたい事がある、描きたい絵がある。

それが今、私が生きていく原動力になっている。


テクスチャーアート「息吹」2025年制作
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